終戦後も、疎開先の湘南・茅ヶ崎での暮らしが続く中、1947年1月、7歳の時には、東京劇場「寿式三番叟(ことぶきしき さんばそう)」の「附千歳(つけせんざい)」役で三代目市川團子を襲名した、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんですが、幼ないながら、定番の子役が嫌いで出演しなかったほか、自身の出番をカットされると、激怒していたといいます。
「市川猿翁(2代目)は7歳の時に三代目市川團子を襲名していた!」からの続き
幼少期から定番の子役が嫌いで出演しなかった
猿翁さんは、幼少期から、定番の子役が嫌いで出演しなかったそうですが、同じ年頃の子どもが少ないため、出演を頼まれることもあったそうで、三代目中村時蔵さんが「先代萩(せんだいはぎ)」の政岡役を演じる時、息子の中村嘉葎雄(賀津雄)さんが子役で出ることになり、猿翁さんも、好きなものを買ってあげるから、一緒に出演してほしいと誘われたそうですが、それでも首を縦に振らなかったそうです。
(定番の子役が甲高い声で「ととさまいのう」と言うのが本当に嫌だったそうで、そのような台詞がない踊りや新作劇で舞台に上がることは好きだったそうです。なので、「宮本武蔵」の城太郎役が来た時は、本当にうれしかったそうです)
歌舞伎座「源氏物語」で小君役に起用されるも登場場面が全てカットされ子役ながら激怒していた
そんな中、戦争で焼け落ちていた歌舞伎座が、1951年の正月に新しくなって再開場し、3月には、九代目市川海老蔵(後の十一代目市川團十郎)さん主演の「源氏物語」が初演されたそうですが、
猿翁さんは、空蝉(うつせみ)と源氏の仲をとりもつ小君という良い役をもらったそうで、ご機嫌で初日を待ち焦がれていたそうですが、芝居が長いため、空蝉の巻自体が初日からカットされてしまい、それに伴い、当然、小君の役もなくなってしまったそうで、猿翁さんは、歌舞伎座のロビーの赤い柱に抱きつき、ダダをこねて泣いたそうです。
すると、松竹の大谷竹次郎社長が「明日は出るよ」となだめたそうですが、それでも、猿翁さんは、「きっと出ない」と言い、その言葉どおりになったそうで、「役者を辞める」とまで言って、激怒したのだそうです。
結局、この一件で猿翁さんの子役時代は終わったそうで、この年(1951年)から、まる3年、舞台から離れることになったのだそうです。
(子役時代は13役しか務めておらず、新作物と舞踊がほとんどだったそうです)
慶應義塾中等部を受験して合格していた
さておき、1952年になると、東京も復興が進み、一家は麹町六番町へ引っ越ししたそうで、猿翁さんも、6年生の3学期から麹町の番町小学校へ転校したそうですが、
6年生の秋、偶然、両親が国文学者の池田弥三郎先生(慶応大文学部教授)と話をしていた際、「ある程度成績が良ければ慶応はとりますよ」と言われたそうで、学業第一という方針だった両親は、すっかり猿翁さんを受験させる気になったそうで、猿翁さんは、急に家庭教師をつけて勉強させられたそうです。
ちなみに、猿翁さんは、應義塾中等部を受験し、見事合格したそうですが、当時、中等部の入学試験では、面接を大事にするという慣習があったそうで、猿翁さんは、職業柄、楽にそれをこなし、合格となったのだそうです。
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