阪神入団1年目の1983年は、当初、外角に落ちる変化球をことごとく空振りし、早くも解雇の危機に直面するも、そのパワーのほか、態度、努力、人格を評価され、なんとか解雇を免れたという、ランディ・バース(Randy Bass)さんは、後半戦から一気に調子を上げるのですが、翌1984年には、またしても、解雇の危機に直面していたといいます。
「ランディ・バースは阪神1年目の1983年前半に解雇寸前だった!」からの続き
入団1年目の1983年に続き2年目の1984年も解雇の危機に瀕していた
阪神入団1年目の1983年、開幕から15打席ヒットが出なかったことから、6月には、いきなり、解雇の危機に瀕(ひん)するも、
(当時、支配下選手登録できる外国人選手は3人まで、一軍で出場できるのは2人までで、先発投手陣が手薄だった阪神は、急遽、リチャード・オルセン投手の獲得に動いており、バースさんとスティーブ・ストローター選手のどちらかが解雇されることになっていたそうです)
最終的に残留となり、後半戦だけで26本塁打を放ったバースさんは、翌1984年も、打率は3割2分6厘、27本塁打、73打点と好成績を残すのですが、走れない、守れないという理由で、またしても、解雇の危機に直面します。
(この年、バースさんは、お父さんが危篤となり、1ヶ月の離脱があったのですが、これを「わがまま」と批判する声が、球団フロントやマスコミ、ファンからも上がり、契約が切られそうになったという話も)
安藤統男監督も吉田義男監督もバースの残留を強く希望していた
そんな中、バースさんによると、
安藤統男監督から直々に呼ばれて、
ランディ、君は大切なプレーヤーだし、絶対に首にはしないから安心してプレーしてくれ。このままやってくれれば、これからもっと良くなるはずだよ
と、言ってもらったそうですが・・・
当の安藤監督はこの年のオフで辞任。
当然、バースさんも解雇されるところだったのですが、今度は、新しく就任した吉田義男監督が、バースさんの「打棒が絶対に必要」と考え、球団にバースさん残留を強く希望したそうで、バースさんはまたしても解雇を免れたのでした。
開幕3試合では15打数2安打0本塁打と低調だった
しかし、1985年シーズン、バースさんは、開幕3試合で、15打数2安打6三振、本塁打はゼロ。
吉田監督によると、バースさんは、1985年4月13日の広島戦との開幕戦(広島市民球場)で、左腕・大野豊投手に4打数ノーヒットに抑えられると、
第2戦の試合前には、広島の先発が、またしても左腕の川口和久投手だと分かるやいなや、ベンチ裏に吉田監督を呼び、オーダーから外してくれと申し出たといいます。
(吉田監督は、三番に据えた打者(バース選手)を相手投手の左右によって、使ったり外したりする訳にはいかないと、この申し出を受け入れなかったそうですが)
「ランディ・バースは3者連続バックスクリーン弾の後絶好調となっていた!」に続く