高校時代は、高2の夏に一度、甲子園に出場したものの、プロから注目されるほどではなかった、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、お父さんの泰治さんがかねてより親交のあった阪神タイガースの元トレーニングコーチの篠田仁さんに入団を掛け合うと、現役を退いたばかりの安藤統男さん(後の阪神の監督)に取り次いでもらえ、1週間だけ、特例の研修という形で阪神の二軍練習に参加したそうですが、1週間の練習を終えると、河西俊雄スカウトに「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件で契約を打診され、約束通り、ドラフト6位で阪神タイガースに指名されたそうです。
「掛布雅之は高校時代は阿部慎之助の父とクリーンアップを組んでいた!」からの続き
父と叔父が千葉商野球部時代の教え子でヤクルトの二軍監督・小川善治に入団を掛け合うも断られていた
掛布さんは、プロ入りを目指すも、高校卒業時点ではまだ無名で、注目を浴びる選手ではなかったことから、大学か社会人かで悩んでいたそうですが、
そんな中(1973年秋)、お父さんの泰治さんと叔父さんの春山正二さんが、当時、ヤクルトの二軍監督を務めていた小川善治さんを頼り、ヤクルトに掛布さんの入団を頼んだそうですが、やはり、小川さんには断られたそうです。
(小川さんは、泰治さんが千葉商業学校の野球部長兼監督時代の教え子だったそうです)
父と叔父が阪神の篠田仁に入団を掛け合うと、安藤統男に話を取り次いでもらい、二軍秋季練習の同行を許可されていた
そこで、泰治さんと正二さんが、今度は、千葉商業高校硬式野球部の元監督で、阪神の元トレーニングコーチの篠田仁さんに相談し、阪神タイガースへの仲介を依頼すると、篠田さんは、この年、現役を退いたばかりだった安藤統男さん(後の阪神の監督)に話を取り次いでくれたそうです。
(正二さんは、かねてより、篠田さんや安藤さんと懇意にしていたとの話も)
すると、安藤さんは掛布さんの入団テストを球団に申し込んでくれたそうで、掛布さんは、ドラフト会議直前の11月に甲子園球場で実施する二軍秋季練習への参加を特別に許されたのだそうです。
阪神球団からの「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件を受け入れ、ドラフト指名する約束を取り付けていた
こうして、掛布さんは、1973年11月、1週間だけ、特例の研修という形で阪神の二軍練習に参加することになると、入団テストのつもりで練習に参加したそうで、(当時は)身長168センチと小柄ながら、かむしゃらにボールを追いかけ、バットを振り、1週間の練習を終えると、
(この練習では、球団が掛布さん用のユニフォームを用意しなかったため、この年限りで現役を引退した安藤統男さんが選手時代に使っていた背番号「9」のユニフォームを裏返しに着て、金田正泰監督ら首脳陣の前で、二軍選手と同じメニューをこなしたのだそうです)
河西俊雄スカウトに「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件で契約を打診されたそうで、掛布さんも「このチャンスを逃してはいけない」との思いで、この打診を受け入れ、阪神球団からドラフト指名すると約束をもらったのだそうです。
ドラフト6位指名で阪神タイガースに入団
そして、1973年のドラフト会議では、約束通り、阪神から6位指名を受けたそうで、掛布さんは、契約金300万円、年俸84万円(金額は推定)で阪神に入団したのでした。
(とはいえ、掛布さんが1年目に手にした月給7万円は、当時の大卒の初任給と同じで、当時の支配下登録選手の最低保障年俸(60万円)を、わずかに上回る程度だったそうです)
大好きな野球を諦めるために阪神に入団していた
ただ、当時、掛布さんは、テスト生みたいな自分がプロで活躍できるとは夢にも思っておらず、縦縞(たてじま)のユニホームに袖を通せたことだけで満足していたそうで、
大学や社会人なら、野球をやめる時に自分を納得させられないかもしれない。でも、プロでダメなら大好きな野球にけじめをつけられる
と、(大学に行っているつもりで)猶予を4年と決めて、自分を納得させて野球を辞めるために阪神に入団したのだそうです。
(いわゆる、「思い出入団」の心境だったそうです)
「掛布雅之は阪神入団1年目は一軍の春季キャンプに選ばれていなかった!」に続く