長年、阪神タイガースで4番打者として活躍してきた、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんですが、後に阪神に入団し、共にクリーンアップを組んだ岡田彰布さんとは、幾度となく不仲説が報じられました。今回は、その真相を岡田さんのコメントを中心にご紹介します。
「掛布雅之は阿部慎之助を幼少期の頃から可愛がっていた!」からの続き
岡田彰布は不仲説を否定
現役時代、掛布さんと岡田彰布さんは一度も飲食を共にしたことがなかったそうで、このことから、不仲説が生まれたそうですが、岡田さんは、飲食を共にしなかったことは認めつつ、その理由は、当時の時代背景によるものとして、2014年のインタビューで、
昔は、今と違って主力打者には専属の打撃投手がいてな。俺らの時代は彼らの球の感触を大事にしていた。同じ投手、打撃捕手のほうが好不調がすぐに気づくわけやん。『今日、バットが遠くから出てますよ』とかな。
毎日そうして会話していたし、打撃コーチよりもそっちに話を聞いてたもん。だから、そういう人たちと試合が終わってからも、固定メンバーでメシに行ってしまう。
親分(主力選手)が3、4人いて、その下に若い選手がついてる形で。そういう感じやった。だから、書かれているような派閥とかやなしに、自然に(掛布氏と食事などをしない)形になってしまったんよな
カケ(掛布)さんのことは最初、俺自身は全然意識せんかったよ。だって、俺の入団前年、本塁打王やで。カケさんはレギュラーのなかで、いちばん若かったんちゃうかな。
まぁ、それより2歳下の俺が入ってきたわけやから、当時、レギュラー陣にはベテランも多かったから。若くて出てたのは俺とカケさんくらいちゃうかな。
カケさんとの食事は、あの1回(2012年春、阪神タイガースのOB4名が集まった会食のこと)だけやったけど、去年(2013年)、甲子園で1985年の日本一のメンバーが集まる番組があったりと、マスコミ通して皆がそろう機会は増えたけどな
と、語っており、
掛布さんとの不仲説を完全否定しています。
岡田彰布は掛布雅之との関係を「いいライバル関係」と語っていた
また、岡田さんは、2015年の取材でも、掛布さんとの関係について、
(阪神の)低迷の原因は(掛布さんのケガによる離脱など)チーム内のライバル関係がなくなったからかもしれん。カケさんとの仲はいろいろ取り沙汰されたが、いいライバル関係やった。右と左で違うし打ち方も別やけど、一緒に阪神を引っ張って行こうということでは同じやったと思う。
ただ話はほとんどしなかった。これはマスコミがしょうがないというか、掛布派や岡田派と書くから、メシとかにも行きづらかったわな。まァ、当時は選手同士でメシを食べにいくことはほとんどなく、専属のバッピ(打撃投手)がおって、そういった裏方と行くことが多かったというのもある。
マスコミは俺がカケさんとグラウンドで話をしたのを見たことないと煽っていたが、グラウンドに来ればチームとしてひとつになったよ。クリーンアップに日本人が2人いるとチームはまとまったわな。
と、語っており、
この時も、掛布さんとの不仲説を完全否定しています。
岡田彰布とはお互い「カケさん」「オカ」と呼び合う良好な関係
実際、そんな掛布さんと岡田さんは、近年は、テレビやYoutubeでも共演が多く、お互いを「カケさん」「オカ」と呼び合っており、良好な関係を築いていることは間違いなさそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
掛布雅之さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?血液型は?本名は?
- 新潟県三条市で誕生し、1歳の時に千葉市に引っ越ししていた
- 父親・泰治は千葉商業高等学校の硬式野球部で部長と監督を兼務していた
- 幼い頃から自宅近くの公園でバットを振ることが何よりも好きだった
- 字を書く時は右手、お箸を持つ時は左手
- 中学の野球部では父親が監督に就任していた
- 父親が監督だったことから特に厳しく当たられていた
- 父親から巣立ちたい気持ちから習志野市立習志野高校に進学していた
- 高校2年生の時に甲子園出場するも1回戦で敗退していた
- 試合に負けたことよりもチームに貢献できなかった4番の責任を痛感して涙を流していた
- 高校3年生の夏の選手権千葉大会では木更津中央高等学校に敗退し甲子園には出場できなかった
- 阿部慎之助の父・阿部東司とクリーンアップを組み、甲子園に出場していた
- ヤクルトスワローズの元エースで監督・小川淳司は2学年下の後輩だった
- 先輩が部室で後輩を正座させて叱る「集合」をやめさせていた
- 後輩が磨かなくていいようにスパイクとグラブも持って帰っていた
- 父と叔父が千葉商野球部時代の教え子でヤクルトの二軍監督・小川善治に入団を掛け合うも断られていた
- 父と叔父が阪神の篠田仁に入団を掛け合うと、安藤統男に話を取り次いでもらい、二軍秋季練習の同行を許可されていた
- 阪神球団からの「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件を受け入れ、ドラフト指名する約束を取り付けていた
- ドラフト6位指名で阪神タイガースに入団
- 大好きな野球を諦めるために阪神に入団していた
- 阪神入団1年目は一軍の春季キャンプメンバーに選ばれなかった
- 甲子園での練習後は、阪神・武庫川駅の河川敷で電車の車窓から漏れる明かりを頼りに一人練習に励んでいた
- 砂を入れたビール瓶を振って手首を鍛えたり、湯船で両手を握ったり開いたりして握力をつけていた
- 田淵幸一からの言葉と譲ってもらったバットを宝物にしていた
- 年俸84万円(月給7万円)で生活は苦しかった
- 給料袋は選手全員の中で一番薄っぺらかった
- 実家の両親への手紙は練習の報告が3行ほどで後は生活の苦しさを訴えていた
- 関西弁が理解できず、虎風荘の関西風の薄味の食事も口に合わず苦労していた
- オープン戦での代打での初打席は凡打に終わるも、2回目の代打では中前適時打を放っていた
- 太平洋クラブ(現・西武)ライオンズ戦で、急遽、一軍のスタメンに起用されると、エースの東尾修から4打数2安打していた
- 少ないチャンスをものにしていた
- 金田正泰監督の猛プッシュで開幕ベンチ入りを果たしていた
- 同期ドラ1の佐野仙好との三塁のポジション争いとなっていた
- 同期ドラ1の佐野仙好には決して負けたくなかった
- 阪神入団2年目の1975年夏場を過ぎた頃に三塁レギュラーとして固定されていた
- 吉田義男は掛布雅之の圧倒的な練習量を絶賛していた
- 山内一弘打撃コーチから2本のゴルフクラブを使用したレベルスイングの特訓を受けていた
- 山内一弘打撃コーチから1箱分のボール(約300~400球)を右と左の往復で打つ特訓を受けていた
- 山内一弘打撃コーチは現役時代「打撃職人」「シュート打ちの名人」と称されていた
- 阪神入団3年目は3割2分5厘,27本塁打,83打点の活躍でベストナインに選ばれていた
- 阪神入団3年目は野球が楽しくて仕方なかった
- テレビ出演料などで約1000万円稼ぐも、野球で稼いだお金ではないと複雑な気持ちになっていた
- 足元から這い上がって来るような恐怖を振り払うため練習に打ち込んでいた
- 阪神入団4年目の1977年も打率3割3分1厘,23本塁打,69打点の好成績を残していた
- 阪神入団5年目の1978年には初めて頭部死球を受け、復帰後は怖くて右足を思い切り踏み込めず打てなくなっていた
- 阪神入団5年目の1978年は球宴で3打席連続本塁打のほか打率3割1分8厘、102打点、32本塁打を記録していた
- 遠井吾郎打撃コーチが個人練習に付き合ってくれた
- 打率が下がった原因は頭部死球だったが遠井吾郎打撃コーチに批判が殺到していた
- 遠井吾郎打撃コーチはファンやマスコミの批判にさらされても、黙って練習を手伝ってくれていた
- 遠井吾郎打撃コーチが1度も技術的な指導をしてくれなかったことが不満だったが後に感謝していた
- 田淵幸一が西武へトレードとなったことで4番に起用され重責を感じていた
- 飛距離を求め、フォームを改造していた
- 打席に入る時のルーティーンの重要性も意識するようになっていた
- 田淵幸一から「途中で縦じまのユニホームを脱ぐような野球はするな」と言われ、4番打者としての覚悟があるのか自問していた
- 中西太打撃コーチの長所を伸ばす指導方法が追い風となっていた
- 左打者でありながら浜風を味方につけ48本塁打(3割2分7厘)で本塁打王に輝いていた
- 素手でバットを握ることにこだわっていた
- 1980年は4月に半月板損傷の重傷を負っていた
- 1980年はシーズン途中で戦列に復帰するも不本意な成績に終わっていた
- 大阪のスポーツ紙に「トレードで放出」と報じられていた
- トレード話の悔しさをバネに練習に打ち込み「4代目ミスタータイガース」と称される活躍をしていた
- トレードなら引退と決めていた
- 清原和博が阪神に入団したら一塁へコンバートされる予定だった
- 1985年はスロースターターのランディ・バース次第で優勝できると思っていた
- 巨人に2対1とリードされていた
- 巨人に1点追加され、3対1とリードを広げられるも、ランディ・バースが逆転3ランホームランを放つ
- ランディ・バース、岡田彰布と共にバックスクリーン3連発
- バースに続くホームランは狙い通りだった
- 阪神の21年ぶりのリーグ優勝&球団初の日本一に大きく貢献
- 1986年は度重なるケガで二軍落ちしていた
- 1986年はプロ入り後最少の67試合のみの出場だった
- 飲酒運転で逮捕され、久万俊二郎オーナーに「欠陥商品」と切り捨てられていた
- 久万俊二郎オーナーに「欠陥商品」と言われてガックリ来ていた
- 1986年に続き1987年も成績不振
- 1988年7月13日には古谷真吾球団代表らと2時間以上に渡る話し合いの末一軍登録を抹消されていた
- 妻の言葉で引退を考えるようになっていた
- 33歳の若さで現役を引退
- 複数の他球団からのオファーも「阪神の4番」にこだわり断っていた
- 33歳の若さで現役引退したことを後悔していないと語っていた
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 本塁打王3回、打点王1回などのタイトル
- 4打数連続本塁打、10打席連続四球などを記録
- ダイヤモンドグラブ賞6回、ベストナイン7回、オールスターゲームMVP3回などを受賞
- 背番号
- 現役引退から25年ぶりに阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーターとして復帰
- 中村勝広GMから「第二の掛布雅之」再現を託されていた
- 打撃コーディネーター(DC)は非常勤扱いで縦縞のユニフォームを着ることができなかった
- 2015年には金本知憲新監督の強い意向で二軍監督に就任
- 二軍監督として伊藤隼太、中谷将大、原口文仁らを一軍に定着させていた
- 二軍監督退任は金本知憲監督との指導方法を巡る対立が原因
- 二軍監督としての成績はいまいちだった
- 甲子園でのウエスタン・リーグ(二軍)最終戦は平日のデーゲームにかわらずにファンが殺到していた
- ウエスタン・リーグで優勝できなかったことから胴上げを固辞していた
- 試合後のインタビューでは「ちょっと優しい監督だった」と核心にも触れていた
- 阪神の一軍監督になれないのは過去の飲酒運転が原因だった?
- 久万俊二郎オーナーは死ぬまで掛布雅之を許さなかった?
- 他球団からの監督オファーを固辞していた
- 産経新聞の記者・田所龍一に他球団からの監督オファーを受けることを勧められるも笑って拒否していた
- 経営していた店舗の不振により多額の負債を抱え、自宅が差し押さえられていた
- 阪神の監督になれないのは金銭問題が原因?
- サイドビジネスを始めたきっかけは突然倒産した「美津和タイガー」のスタッフを支えるためだった
- 「美津和タイガー」スタッフ全員の再就職先が決まった時点でスポーツカジュアル用品店は閉店していた
- 料理店を次々オープンしたのは金儲けのためではなく、おいしい料理を提供し、みんなに喜んでもらうためだった
- 阪神では派閥を作らず一匹狼だった
- 楽天の三木谷浩史から監督就任オファーを受けるも監督像を巡って食い違いがあり辞退していた
- 阪神の一軍監督の話はないと掛布雅之本人が明かしていた
- 妻・安紀子との馴れ初めは?
- 妻・安紀子は美人で有名だった
- 妻・安紀子と共に婚約会見をしていた
- スキャンダル(浮気現場)を写真週刊誌に撮られた際には妻・安紀子にひたすら頭を下げて謝っていた
- 妻・安紀子とは共通の趣味のゴルフをしプレー中に話をするように心がけている
- 妻・安紀子と仲良くする方法として「韓国ドラマ」を見ていた
- 子供は息子(長男)が1人
- 息子(長男)の啓悟は顔も声のトーンも打撃フォームもそっくりだった
- 息子(長男)の啓悟は大学3年の時は4番・主将を務めていた
- 息子(長男)の啓悟は父・掛布雅之を「最も尊敬する野球人」だと語っていた
- 息子(長男)の啓悟は大学卒業後はプロ入りを目指し、社会人野球「三菱重工神戸」に入部するも・・・
- 孫は男の子が1人
- 阿部慎之助の父親・阿部東司とは習志野高校硬式野球部の同級生でクリーンアップを組んでいた
- 阿部慎之助を幼少時からかわいがり、野球の指導もしていた
- 阪神のレジェンド・掛布雅之を巨人のコーチに招聘することは現在もハードルが高い
- 岡田彰布は不仲説を否定
- 岡田彰布は掛布雅之との関係を「いいライバル関係」と語っていた
- 岡田彰布とはお互い「カケさん」「オカ」と呼び合う良好な関係
について、まとめてみました。
3度の本塁打王と2度の打点王に輝くなどの活躍で「ミスタータイガース」と称されるも、いつも謙虚な掛布さん。そんな掛布さんには、やはり、一度は阪神タイガースの監督になってもらいたいものです。
「掛布雅之は幼い頃からバットを振ることが何よりも好きだった!」