高校1年生にして、「第53回全国大会栃木県予選」準々決勝の烏山高等学校戦で完全試合を達成すると、同年秋の「第24回秋季関東地区大会栃木県予選」でも抜群の活躍で、作新学院を優勝に導いた、江川卓(えがわ すぐる)さんは、同年11月の秋季関東大会での前橋工業高等学校戦でも、10連続奪三振という離れ業をやってのけるのですが、5回には、頭部死球を受け、耳から血を流して意識を失い、そのまま入院してしまいます。
秋季関東大会の初戦・前橋工業高等学校戦では、頭部死球を受け、耳から血を流して退場していた
1971年、栃木県予選大会では、4試合(30イニング)に登板して、2失点、37奪三振、防御率0.67という素晴らしい成績で、作新学院を、見事、優勝に導いた江川さんは、同年11月1日に迎えた秋季関東大会でも、初戦の前橋工業高等学校戦に先発出場すると、1回二死から10連続奪三振という離れ業をやってのけるのですが、
1対0とリードしていた5回表、3打席目で、前橋工業高校の小池投手から頭部死球を受けると、耳から血を流して意識を失い、そのまま入院。
(この不運により、連続奪三振がストップしてしまいました)
すると、その後、後続投手が打たれ、チームは逆転負けしてしまいます。
10奪三振のうち空振りとスリーバント失敗の2つを除きすべて見逃しの三振だった
とはいえ、江川さんは、この試合、4回までの12アウトのうち、10アウトは連続10奪三振によるもので、空振り1つとスリーバント失敗1つを除き、8奪三振は見逃しの三振だったそうで、
(フェアグランドへ打たれたのは、初回、トップの山崎選手のセーフティーバントによる投ゴロだけで、塁に出たのは初回に四球を与えた2番の狩野選手だけだったそうです)
江川さんは、インタビューで、
僕の投げたボールがヒューッと浮いていくのがマウンドから見えたんです。ボールが”浮く”というイメージを持った初めての瞬間でした
と、語っており、
入院していた病院のベッドの上で、前橋工業高等学校戦での自らの投球に満足していたそうです。
高校2年生の春にもノーヒットノーラン(2回)
そんな江川さんは、1972年、高校2年生の時にも、「第25回春季関東地区大会栃木県予選」で、1回戦の黒羽根高等学校戦ではノーヒットノーラン(5対0)、準々決勝の高根沢商業高等学校戦では完投(4対1)、準決勝の宇都宮商業高等学校戦でも完投(6対3)すると、
決勝の足利工業高等学校戦では、先発1回1/3(2安打、4奪三振、2四球、自責1)で降板するも、
(チームは3対2で勝利し、「第25回春季関東地区大会」に勝ち進みます)
「第25回春季関東地区大会」2回戦の前橋育英高等学校戦では、またしてもノーヒットノーラン(11対0)を達成。
ただ、準決勝の千葉商業高等学校戦では、延長12回を完投するも(8安打、15奪三振)、味方の援護に恵まれず、1対0で敗退してしまったのでした。
「江川卓は高2のとき3試合連続ノーヒットノーランを達成していた!」に続く