作新学院高等学校時代、圧倒的な投球をしていた、江川卓(えがわ すぐる)さんは、高校3年生の時には、阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けるのですが、慶應義塾大学進学を希望し、入団を拒否しています。

作新学院高校時代の江川卓

「江川卓は高3の夏の甲子園では開幕前から疲れていた!」からの続き

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千葉国体でも決勝戦で銚子商業高等学校に敗退していた

1973年、高校3年生の夏の甲子園(第55回全国高等学校野球選手権大会)では、2回戦の銚子商業高等学校戦に敗れ、高校最後の甲子園が終わった江川さんは、

同年10月14日開幕の千葉国体では、1回戦で広島商業高等学校を2安打17奪三振で完封(1対0で勝利)、2回戦の静岡高等学校戦も4安打11奪三振で完封(5対0で勝利)するも、

決勝の銚子商業高等学校戦では、先発2回で、被安打2、奪三振2、自責点1で降板すると、後続投手が打たれて、作新学院はまたしても敗退しています(2対3)。

早慶戦でプレーすることに憧れ、慶應義塾大学進学を希望していた

さておき、江川さんは、中学3年生の時、初めて観た早慶戦で、広い神宮球場のスタンドが両校応援団で真っ二つに応援合戦を繰り広げる光景を観て、「こんな応援のなかでマウンドに立ちたい・・・」と、早慶戦でプレーする憧れを抱いていたことから、進路を考える時期になると、かねてより憧れていた慶應義塾大学を受験しようと決めたそうです。

(早稲田ではなく、慶応を選んだのは、夏の甲子園が終わった直後に、慶応野球部OBが早稲田より先に、うちに来ないかと誘ってくれたからだそうで、絶対、慶応でなければならない、というこだわりは全くなかったそうです)

慶応大を受験するため愛知県豊橋の受験合宿所で1日10時間の猛勉強に励んでいた

ただ、毎日、練習に明け暮れてクタクタになって帰宅し、夜、机に向かっても、勉強どころか、睡魔が襲ってくる状況に、高校入学当初は2位だった成績もだんだん下がり、3年生になる頃には、果たして大学に進めるのかと不安になるほどだったそうですが、

慶応野球部OBから誘いを受けて、秋から愛知県豊橋で合宿特訓をしてもらえることになり、週に何度か宇都宮から豊橋の受験合宿所に通い、1日10時間の猛勉強を続けたのだそうです。

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1973年のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けるも、大学進学を希望していたため入団を拒否していた

そんな江川さんは、1973年、作新学院高等学校3年生の時、ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けているのですが、大学進学を希望していたため、入団を拒否しています。

(もし、阪急ブレーブスからではなく、巨人からの指名だったとしても、この時点では、プロ入りの気持ちは全くなかったそうです)

「江川卓が慶應大学を不合格になったのは大学側の都合だった?」に続く

作新学院高校時代の江川卓

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