大学時代には、法政大学の「全て完全優勝の4連覇(1976年春~1977年秋)」という空前絶後の黄金時代を築き上げた、江川卓(えがわ すぐる)さんは、ドラフト会議(変則ウェーバー方式)ではクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から指名されるのですが、本拠地が九州であることを理由に入団を拒否します。
「江川卓は法政大を通算17完封等で4連覇(全て完全優勝)に導いていた!」からの続き
江川卓は国会議員の船田中に後ろ盾になってもらうよう依頼していた
江川さんは、大学4年生の1977年11月、野球部の活動を終了すると、11月9日、母校の作新学院高校の理事長であり地元出身の国会議員・船田中氏とその秘書の蓮実進氏を訪問しているのですが、
4年間の大学野球生活の終了を報告するとともに、ドラフト会議後のプロ球団との交渉を一任することを要望したそうで、船田氏もこれを快諾したそうです。
船田中は記者会見を開き、江川卓が巨人入りを希望していることから他球団の指名は回避してほしいと語っていた
すると、船田氏は、11月19日、東京・平河町の船田事務所で記者会見を行い、
江川君は巨人を強く望んでいる。身柄を一任されている私としては、本人の希望をかなえさせてあげたい
指名がくじ引きであることは承知している。各球団が話し合って善処してほしいと期待している
と、江川さんの希望球団は巨人で、さらには、他球団には江川さんの指名を回避してほしい(巨人を逆指名)と発表します。
(これに対しプロ野球界からは反発の声が上がりました)
1977年のドラフト会議ではクラウンライターライオンズが指名順位1番を引き当てていた
しかし、同年11月22日に行われたドラフト会議(変則ウェーバー方式)では、抽選で、この年、パ・リーグの最下位だったクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が最初にくじを引き、次いで、セ・リーグの最下位だった横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、以降、パ・リーグとセ・リーグの下位チームが交互にくじを引くと(パ・リーグ5位のチーム⇒セ・リーグ5位のチーム⇒パ・リーグ4位のチーム⇒セ・リーグ4位のチーム・・・)、
クラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が指名順位1番を引き当てます。
(ちなみに、巨人(セ・リーグ優勝)の指名順位は2番でした)
※1967~1977年のドラフト会議は変則ウェーバー方式(指名順位抽選方式)で、セ・パの最下位からくじを引いて指名順位を決めていました。
江川卓はクラウンライター・ライオンズから1位指名を受けるも本拠地が九州であることを理由に入団を拒否していた
こうして、江川さんは、クラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から1位指名を受けたのですが・・・
(ちなみに、巨人は早稲田大学の山倉和博選手を指名)
同年12月、東京・平河町の船田事務所で記者会見を開くと、
指名された球団(クラウン)は、関東に住む私にはなじみの薄かったこと、球団が遠隔地(九州・福岡)であるため、私の関係者が私のプレーを見られないという意見も多かった。今まで私はこれら関係者の多大な援助を受け、育ってきたので無視することができなかった
と、当時、福岡市を本拠地としていたクラウンライター・ライオンズに対し、「福岡は遠い」との理由で入団拒否を表明しています。
(後に、江川さんは、巨人がだめでも巨人と対戦できる、関東のセ・リーグ球団であるヤクルト・スワローズや横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)からの指名であれば入団するつもりだったと語っています。(当時交際中だった女性(後の妻)が東京在住だったため、遠距離恋愛を避けられるとの理由)
「江川卓はアメリカに野球留学(南カリフォルニア大学)していた!」に続く
1977年11月22日、ドラフト会議でクラウンライターライオンズから指名され、がっくりと肩を落とす江川さん。