ドラフト前日の「空白の一日(1978年11月21日)」を利用した巨人との契約(選手登録)が、プロ野球実行委員会で討議された結果、無効とする裁定が下された、江川卓(えがわ すぐる)さんは、その後、巨人がボイコットしたドラフト会議で、南海ホークス、阪神タイガース、ロッテオリオンズ、近鉄バファローズの4球団に一位指名されると、最終的には阪神に交渉権を引き当てられるのですが、その後、日本野球機構コミッショナーの金子鋭氏により、「両球団(阪神と巨人)によるトレードで解決せよ」という「強い要望」が提示されると、最初は断固拒否していた阪神が、突然、応じ、一旦、巨人から契約を解除された江川さんは、まず、一旦、阪神に入団し、その直後、巨人のエース・小林繁投手との交換トレードで、念願の巨人入りを果たします。

江川卓と阪神・小津正次郎球団社長

「江川卓はコミッショナーに巨人入団を認められていなかった!」からの続き

Sponsored Link

江川卓は一旦阪神に入団してから巨人にトレードすることを金子鋭コミッショナーに強く要望されていた

巨人が、「空白の一日」を利用した江川さんとの契約に関して、あくまで契約の正当性を主張し、「野球協約ではドラフト会議は全球団の出席を不可欠の要因としており、今回のドラフトは効力が発生せずドラフト会議は無効(つまり、阪神に江川さんの交渉権獲得はないという意味)」と日本野球機構コミッショナーの金子鋭氏に提訴したことで、巨人に対する批判が強まり、今後のプロ野球の運営に支障をきたほどの大騒動となった中、

金子コミッショナーは、「江川さんの巨人入り」という巨人の当初の目的を達成させることで、問題の解決を図ろうとしたそうで、巨人の訴えを退ける一方、翌12月22日のプロ野球実行委員会で、「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後(キャンプ前に)すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という、限りなく命令に近い「強い要望」を提示します。

(野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されているのですが、金子コミッショナーはそれを承知の上でトレードによる解決を提案したのだそうです)

阪神は当初は江川卓をトレードに出すことに強く反発していたが・・・

この金子コミッショナーの「両球団によるトレードで解決せよ」という「強い要望」に対し、

当初、阪神球団社長の小津正次郎氏は、

たとえ王貞治を(トレードの交換要員として)用意したとしても(江川を)トレードには出さない

と、一蹴していたのですが・・・

Sponsored Link

一転、江川卓は一旦阪神と契約してから巨人のエース・小林繁との交換トレードで巨人に移籍していた

その後、巨人が、12月27日、「空白の一日」による江川さんとの契約を解除したことから、阪神は、正式に江川さんとの交渉を開始するべく、翌年1979年1月7日、江川さんと初の入団交渉を行うのですが・・・

1月11日、2度目の交渉でも、阪神の「トレードは前提にできない」という態度から交渉はまとまらなかったそうです。

しかし、一転、1979年1月31日、阪神は、江川さんと入団契約を交わすと、同日中に、巨人が提示したエース格の小林繁投手との交換トレードを成立させたのです。

(江川さんは、念願の巨人入りを果たしたのです)

ちなみに、1979年1月31日、小林繁投手は、キャンプ地の宮崎に発つため、羽田空港に向かっていたそうですが、急遽(きゅうきょ)巨人の球団関係者から呼び戻され、阪神・江川さんとの交換トレードを通告されたそうで、首脳陣に説明、説得され、これに応じたのだそうです。

「江川卓のトレードを拒否していた阪神が一転受け入れた理由とは?」に続く

江川卓と阪神・小津正次郎球団社長
阪神・小津正次郎球団社長(右)と阪神入団会見をする江川さん(左)。

Sponsored Link