入団3年目の1981年9月9日には、後楽園球場での大洋ホエールズ戦で20勝を達成している、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、実は、その6日前の9月3日のヤクルト戦で19勝目を挙げてから、極度の緊張状態に陥っていたといいます。
「江川卓は1軍デビュー戦で阪神・山本和行と対戦し過信が消えていた!」からの続き
入団3年目の1981年、19勝目から20勝目までの1週間は極度の緊張状態で食事が喉を通らなかった
入団3年目の1981年9月9日には、後楽園球場での大洋ホエールズ戦で20勝を達成している江川さんですが、実は、それまでの道程(みちのり)は、遠く辛いものだったそうで、
特に、9月3日のヤクルト戦で19勝目を挙げ、20勝まであと1勝となった際には、その1勝までの道のりが恐ろしく長く感じ、9月9日までの6日間は極限状態となったそうで、気の休まる瞬間がなかったそうです。
というのも、妻の正子さんによると、江川さんと奥さんの二人の間では、「20勝」はあの「空白の一日」の一つの免罪符のようなものだったそうで、「20勝すれば、ドラフト後の悪魔のような日々を忘れられるかもしれない」と考えていた部分もあったそうで、江川さんは極限状態に陥っていたのだそうです。
(江川さんは、毎回、登板前は、緊張状態になって食事の量も落ちていたそうですが、特に、9月3日に19勝目を挙げてからは、おかゆすら口にできず、唯一、口にできたのは正子さん手作りの冷たいビシソワーズ(ポタージュ)風スープのみだったそうです。また、極度の緊張状態で神経がピリピリし、些細なことで正子さんに当たり散らすこともあったそうです)
入団3年目の1981年、20勝をかけた試合では妻と娘のためにノーヒットノーランを狙っていた
こうして、迎えた9月9日、江川さんは、妻の正子さんとまだ赤ちゃんだった娘の早(さき)さんのためにノーヒットノーランを狙っていたそうですが、2回の表には、早くも、大洋6人目の打者・福嶋久晃選手に内野安打を許し、ノーヒットノーランの野望は消えてしまったそうで、
それでも、江川さんは記録の達成にこだわり、今度は目標を奪三振記録に切り替えたそうですが、7回には球威が落ち、これも叶わなかったのだそうです。
20勝を達成した時は珍しく無意識にガッツポースをしてしまっていた
しかし、最終回には、一死後、屋鋪要選手に投じた4球目の内角へのストレートで屋敷選手のバットを砕き、力ない一塁方向への凡フライに打ち取って二死とすると、
ラストバッターの中塚政幸選手へは、ホップするストレートでバットにかすらせず空振三振に打ち取り、20勝を達成。
ちなみに、江川さんは、珍しく、試合終了と同時にガッツポーズをとっているのですが、このガッツポーズには、自分、奥さん、娘への想いが込められていたのだそうです。
(江川さんは、普段、9回二死になるとほぼ試合の行方が分かるため、分かるものには感動しないという理由で、ガッツポースをしなかったそうですが、この時は、意識とは別に体が勝手に動いたのだそうです)
「江川卓は4年目の1982年も前年20勝に続き19勝の活躍だった!」に続く