監督としては、最初の3シーズン(1989年~1991年)は、2位、2位、優勝も、その後の7シーズン(1992~1993年、2001~2005年)は、4位、最下位、4位、5位、5位、5位、最下位と、全てBクラスに沈んだ、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、金本知憲選手、新井貴浩選手といった、日本を代表する4番(スラッガー)を、我慢して使い続け、育てています。
山本浩二はドラフト4位で金本知憲選手を獲得するとファームでじっくり鍛えていた
金本知憲選手は、山本さんが監督3年目の1991年の秋のドラフトで、4位で広島に入団しているのですが、入団時は、山本さんから見て、正直なところ、打撃も守備も一軍のレベルではなかったそうです。
ただ、入団1年目の1992年、近鉄とのオープン戦で代打で起用すると、金本選手は2ストライク0ボールから、粘って四球をもぎ取ったそうで、
山本さんは、これを見て、金本選手の精神面の強さを確信し、重点強化選手に指定して1年目はじっくりファームで鍛えることにしたのだそうです。
1991年12月、広島入団発表での金本知憲さん(後列中央)と山本浩二さん(前列中央)。
金本知憲は山本浩二が監督を辞任した翌年から頭角を現し、2000年には史上7人目のトリプルスリーを達成するなど球界を代表する選手になっていた
そんな中、翌1993年は、チームが最下位に沈んだことから、山本さんは監督を辞任するのですが、
金本選手も、当時は非力で、コーチからは、足の速さを活かす為、打球を転がすよう言われていたほか、外野守備も、しばしば送球を地面に投げてしまうなど、厳しい状況で、金本選手自身、「クビを覚悟していた」といいます。
しかし、金本選手は、筋トレで地道な身体作りを始めるほか、山本一義コーチの指導などで、着実に力をつけていくと、1994年後半から頭角を現し(この年は17本塁打)、1995年にはレギュラーに定着(この年には初のベストナインを獲得)。
そして、1996年には、打率3割、27本塁打、72打点、1997年には、打率3割1厘、33本塁打、82打点、
1998年は、打率2割5分3厘、21本塁打、74打点と落とすものの、1999年は、打率2割9分3厘、34本塁打、94打点、
そして、2000年には、打率3割1分5厘、30本塁打、30盗塁を記録し、史上7人目のトリプルスリーを達成するなど、球界を代表する選手になったのでした。
山本浩二は金本知憲を2001~2002年の2年間、全試合4番でフル出場させていた
そして、2001年、山本さんが広島の監督に復帰し、金本選手を全試合4番で起用すると、金本選手は同年7月7日には200本塁打、9月2日には1000安打をそれぞれ達成するなど、前年に引き続き大活躍。
ただ、翌2002年は、打率は3割1分4厘⇒2割7分4厘、出塁率は4割6分3厘⇒3割4分8厘と、前年から大きく落ちるも、山本さんは、前年と変わらず、金本選手を全試合4番でフル出場させたのでした。
金本知憲は山本浩二が広島監督在任中にFA権を行使して阪神に移籍していた
しかし、金本選手は、2002年オフ、FAで阪神に移籍してしまいます。
実は、金本選手は、2002年オフに国内FA権を取得するも、広島に愛着があったため、広島に残留するつもりでいたそうですが、広島以外の球団が自分をどう評価しているかを聞きたいという思いもあったことから、
広島球団に提示された年俸の一部を減額し、その額を再契約金にしてもらっていいので、「FA宣言しての残留」を認めて欲しいと、広島球団に願い出たそうですが、
広島球団は(年俸が跳ね上がることから)FA権を行使しての残留は認めない方針だったため、FAするなら再契約しない、と金本選手の申し出を却下。
結果、両者の溝は埋まらず、金本選手が(広島球団の対応やFAに対する価値観の違いから)FA宣言すると、阪神・星野仙一監督から熱心な誘いを受け、FA権を行使して阪神に移籍することとなったのでした。
(FA権は、選手があらゆる球団と選手契約ができる権利で、FA権を獲得し行使すると、他球団とも契約交渉をすることができるようになるのですが、FA権を獲得するには、145日以上一軍登録されているシーズンを8シーズン(8年)迎える必要があります)
競技者表彰プレーヤー部門で野球殿堂した金本知憲さん(左)を祝福する山本浩二さん(右)。
山本浩二は金本知憲が抜けた後、新井貴浩を4番で使い続けていた
こうして、不動の4番打者に育った金本選手を失った山本さんは、翌2003年には、入団5年目の新井貴浩選手を開幕から4番に起用するのですが、新井選手は深刻な打撃不振に陥ってしまいます。
(新井選手は、前年の2002年には、打率2割8分7厘、28本塁打、75打点の成績を残していました)
しかし、山本さんは、自身が現役時代、我慢して使ってもらった結果、大きく花開いた選手だったため、新井選手も簡単には外さず、使い続けたのですが…
7月12日、開幕から73戦目の中日戦では、ついに、新井選手を4番から6番に下げ、8月9日にはスタメンからも下ろさざるを得ず、
結局、新井選手は、この年(2003年)、最終的には、137試合488打数115安打で、打率2割3分6厘、19本塁打、62打点と、前年を下回る成績に終わったのでした。
山本浩二の広島監督最終年(2005年)広島は最下位に終わるも新井貴浩はホームラン王に輝いていた
それでも、山本さんは、2004年も(前年ほどではないも)新井選手を使い続けるのですが、新井選手は、この年(2004年)も、103試合262打数69安打で、打率2割6分3厘、10本塁打、36打点と、本来の打撃を取り戻すことはできません。
(新井選手の打棒が復活しない中、山本さんが辛抱して新井選手を4番で使い続けていると、スタンドからはきつい野次が飛んだそうで、新井選手はもちろんですが、使い続ける山本さんも苦しかったそうです)
しかし、2005年には、ついに、新井選手は本来の打撃を取り戻し、打率3割5厘、43本塁打、94打点で、ホームラン王に輝き、
(ただ、チームは最下位)
山本さんにとっては、この年(2005年)いっぱいで監督を辞任するも、新井選手のタイトル獲得がせめてもの救いとなったのでした。
(ちなみに、そんな新井選手もまた、2007年オフにFA権行使を宣言し、阪神に移籍しているのですが、新井選手は後に、移籍した理由について、「金本知憲さんと一緒に野球がしたかったから」と明かしています。また、財政難のカープは、新井選手と前田智徳選手の両(主力)選手を置いておけず、どちらかはFAで出なければならないという暗黙の了解があり、新井選手が出たのはやむを得なかったとも噂されていますが、真偽は不明です)