1965年、美少年歌手として、「だけど だけど だけど」で歌手デビューすると、同年「柳ヶ瀬ブルース」、1968年「釧路の夜」、1972年「さそり座の女」など、数々のヒット曲を連発し、一躍、人気歌手の仲間入りを果たすと、1990年代には、バラエティ番組などで”オネエ言葉”による歯に衣着せぬトークで人気を博した、美川憲一(みかわ けんいち)さんですが、実は、お母さんのお腹の中で亡くなって生まれてこなかったかもしれなかったといいます。

小学校入学時の美川憲一と実母

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美川憲一の年齢は?出身は?身長は?本当は誕生日が違う?

美川さんは、1946年5月15日生まれ、

長野県諏訪市の出身、

身長172センチ、

血液型はA型、

学歴は、
港区立愛宕中学校
⇒正則高等学校中退

趣味は、ショッピング・絵画コレクション

特技は、日本舞踊

だそうです。

ちなみに、美川さんが誕生した本当の日は5月4日だそうですが、親族が出生届を出すのが遅くなり、戸籍上の出生日(誕生日)が5月15日となったそうです。

ただ、美川さん自身は5月15日が誕生日だと思っており、誕生パーティーなどは5月15日に行っているそうです。

美川憲一の本名は?芸名の由来は?「美川けん一」も!

美川さんの本名は、百瀬由一(ももせ よしかず)というそうですが、芸名の「美川」の由来は、木曽川、長良川、揖斐川という中京圏(長野県、愛知県、三重県、岐阜県)を流れる3本の「美しい川」にちなみ、

岐阜出身の当時のプロダクションの担当者により、「川のように息が長く、美しい歌手であるように」との願いを込めて名付けられそうです。(「憲一」の由来は不明です)

(一時期、「美川けん一」という芸名を使っていたこともあったそうです)

美川憲一の母親はダンサーとして働いていた時に、夫(美川憲一の父親)に結婚前提の交際を申し込まれていた

美川さんのお母さん(以し子(いしこ)さん)は、新橋の「フロリダ」というダンスホールで、社交ダンスの相手役をするダンサーとして働いていたそうで、そこで、美川さんのお父さんと知り合い、結婚を前提とした交際を申し込まれたそうですが、お母さんは、お父さんのことが好みのタイプではなかったそうです。

ただ、お父さんが神田で会社を経営していることを知ると、経済的な余裕を感じ、(女性が一人で生活していくのは大変な時代だったため)その気になり、この申し出を受け入れたのだそうです。

美川憲一の母親が身ごもった時、夫(美川憲一の父親)はあまりいい反応をしなかった

すると、お父さんは、住まいを用意してくれ、毎日訪ねて来たそうですが、家に泊まっていくことはなかったそうです。

(お母さんは、仕事が忙しいせいだと気にせずにいたのだそうです)

そんな中、ほどなくして、お母さんは、美川さんを身ごもったそうですが、お母さんがお父さんに妊娠を告げると、お父さんの顔つきが変わり、あまりいい反応をしなかったのだそうです。

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美川憲一の母親は夫(美川憲一の父親)に騙され流産する劇薬を飲まされるところだった

そのうち、お母さんのお腹は大きくなっていったそうですが、

ある日のこと、お父さんに、

これを飲むと元気な赤ちゃんが生まれるから

と、ピンクの容器の薬を渡され、その場で飲むように言われたといいます。

ただ、お母さんは、なんだか嫌な予感がしたことから、「後で飲むから」と言って、その場では飲まず、お父さんが帰った後、その薬を捨てたのだそうです。

(翌日、再び、お父さんがやって来たそうで、お母さんが薬を飲んだと告げると、お父さんは、「ああ、よかった。いい赤ちゃん生まれるよ」と言ったそうです)

そして、お母さんのお腹はどんどん大きくなっていったそうですが、なぜか、そのうち、お父さんはパタリと来なくなったのだそうです。

実は、後で分かったそうですが、お父さんは妻子がいながら、お母さんを騙して交際していたそうで、子供ができると困るため、なんと、流産させる劇薬を、元気な赤ちゃんが生まれる薬と偽って、お母さんに飲ませようとしていたそうで、お父さんは、お母さんから飲んだと聞いたにもかかわらず全然効かないことから逃げていたのでした。

「美川憲一は母の姉夫婦(伯父伯母)に育てられ実父母と信じ込んでいた!」に続く

小学校入学時の美川憲一と実母
小学校入学時の美川憲一さんと実母の以し子さん。

お読みいただきありがとうございました

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