3歳の時、おもちゃのバットとグローブで野球を始めると、小学3年生の時には、すでに、ボールを打つ直前にスイングしたバットを瞬時に止める技術を持っていたほか、中学3年生の時には、12メートルの至近距離から130キロのボールを打ち返すことができたというイチローさんですが、高校(愛工大名電)時代は、甲子園に2回出場するも、あまり活躍することは出来ませんでした。

高校時代のイチロー

「イチローは愛工大名電には成績特待生で進学!県立高校進学予定だった?」からの続き

Sponsored Link

イチローは愛工大名電では全寮制の寮で寄宿生活を送っていた

イチローさんは、豊山町立豊山中学校から愛工大名電(愛知工業大学名電高等学校)に進学しているのですが、1989年3月の終わり、入学前に一足先に野球部に入部すると、学校から13キロほど離れたところにある全寮制の寮に入ったそうです。

そして、入学後は、寄宿生活を送りながら、寮に併設されたグラウンドで日々猛練習を行ったそうで、朝、スクールバスで学校まで行き、授業が終われば、またスクールバスで寮に戻ってきて練習を開始する、という日々を送っていたそうです。

(グラウンドには、中学校と違い、ナイター照明もあり、夜間も7時、8時と暗くなるまで練習を続けることができたほか、室内練習場もあったことから、夕食後、自主練習を行うこともできたのだそうです)

イチローは愛工大名電進学後すぐに1年生でただ一人だけ練習試合に出場するといきなりセンター前ヒットを放っていた

ちなみに、イチローさんは、4月2日、上級生に混ざって1年生でただ一人だけ練習試合に出ることになると、3番ライトに起用され、2打席目には、早速、センター前ヒットを放ち、華々しいデビューを飾っているのですが、

(イチローさんが入学した当時、愛工大名電の部員は51人で、このうちレギュラーになれるのは17名ほどだったそうですが、そこからプロのスカウトの目に留まり、プロになれるのは、何年に1人いるかいないかという気の遠くなるような世界なのだそうです)

実は、愛工大名電の中村豪監督は、イチローさんを使いたくて仕方がなかったといいます。

というのも、中村豪監督は、イチローさんから、入学前に、

甲子園が目標ではありません。プロになれる選手に育ててほしい

と、言われ、

任せてください

と、返答したそうですが、

目の前のイチローさんはというとガリガリで、正直、どれだけの可能性を秘めているのか分からなかったのだそうです。

ただ、実際にイチローさんのプレーを初めて見た瞬間、そんな考えは吹っ飛んだそうで、

後に、中村豪監督は、

ボールを芯でとらえる感覚がずば抜けていました。入学前の練習試合で起用したら、いきなり活躍したので度胸もあるな、と

と、語っています。

そして、中村豪監督は、親分肌だったという1学年上(2年生)の日比野公彦さん(捕手)に、

あいつは必ず戦力になる。上級生につぶされないよう、ガード役として守ってやれ

と、指示していたそうですが、

この練習試合を見ていたという、その日比野公彦さんも、

当時はうちで野球するのは無理だと思うほど痩せていましたが、いきなり鋭い打球をセンター前へ運んだんです。そのあとも2本ヒットを打ったはずです。これは凄い奴が入ってきたぞって思いましたね

と、語っています。

イチローは高1の時、父親に「野球をやめたい」と言っていた

こうして、1年生からいきなりレギュラーとなったイチローさんですが(ポジションは三塁手で、打順は主に1番と3番だったそうです)、

イチローさんの父・宣之さんによると、1年生の時に、一度だけ、「野球をやめたい」と言ったことがあったといいます。

それは、イチローさんが野球部に入部してから1ヶ月が過ぎた5月のゴールデンウィーク、イチローさんが長野への遠征試合から戻り、入学後初めて実家に帰ってきた夜のこと、

イチローさんは、

お父さん、ぼく、野球をやめたい・・・

と、言ったのだそうです。

(イチローさんは、家に帰って来た時から元気がなく、久しぶりに宣之さんとバッティングセンターに出かけたそうですが、打席でも覇気がなかったのだそうです)

そこで、宣之さんは、

自分でやってきたことが何だったのか、ようく考えてみなさい。それで後悔しなければ、お父さんはいい。一朗本人が納得すればいい。ただ、こんなことわざがあることだけは覚えておきなさい。何事も「後悔先に立たず」だよ

と、だけ、言ったそうですが、

内心、「なに・・・どうして・・・」と、言葉も出なかったそうで、あえて平静を装い、理由を聞くなど、余計なことは言わなかったのだそうです。

すると、翌朝、イチローさんは、何事もなかったかのように寮に戻って行ったのだそうです。

イチローは高2のとき交通事故に遭い選手生命の危機に立たされていた

また、イチローさんは、高校1年生の秋には、レギュラー枠17人の一人に選ばれているのですが、高校2年生の時、交通事故(自転車での通学中に車と接触)によりケガをし、選手生命の危機に立たされたことがあったといいます。

イチローさんの父・宣之さんによると、高校2年生の新学期が始まって間もないある日の早朝、イチローさんは、通学途中、自転車通行可能の歩道を自転車で走っていると、脇道から出てきた車と衝突し、車のボンネットの上に跳ね上げられてしまったのだそうです。

ただ、最初の病院では、「大したことありません」と言ってすぐに帰されたそうですが、1日、2日と経つと、どんどんふくらはぎが腫れ上がり、痛みが増してきたそうで、

このままではいけないと思い、病院を変えると、2軒目の病院では

これは半月板がいかれています。すぐ手術しましょう

と、言われたそうで、

この診断にも不信感を抱いたイチローさんと宣之さんは、イチローさんが小さい頃からかかりつけだった地元の名倉堂という整骨院に駆け込んだそうですが、

そこでは、それまでかかった2軒の病院での診断を否定され、「骨折こそしていないものの、まともに右足に衝撃を受けたために、右ふくらはぎの最深部で肉離れを起こしている」と診断されたそうで、

イチローさんは、それから1ヶ月半、松葉杖を使う生活を余儀なくされたそうで、練習も見学のみという辛い日々を過ごしたのだそうです。

イチローは交通事故の影響もあり投手を断念していた?

それでも、幸い、イチローさんのケガは大事には至らず、後遺症が残ることもなく、全快したそうですが、事故の後、右足をかばうせいか、ピッチャーとしての投球フォームを崩してしまい、この事故が、後にイチローさんが投手を断念する一因になったとも言われています。

(もっとも、この投球フォームを崩す前兆は1年生の時からあったそうで、高校入学当初、投手としてスタートしたイチローさんは、バッティングを生かすため、途中から内野手をやるようになったそうですが、その結果、内野手のスローイングのくせがつき、投球フォームが小さくなってしまったのだそうです)

イチローは愛工大名電時代、甲子園には2回出場もあまり活躍は出来なかった

さておき、イチローさんは、高校2年生の夏には、3番レフトで甲子園初出場を果たしているのですが、4打数1安打という成績で、残念ながら1回戦で天理高校に敗退。

(この大会で天理高校は優勝しています)

そして、その後、3年生が退部し、秋にイチローさんら2年生を中心とした新チームが結成されると、イチローさんらは順調に勝ち進み、秋の県大会、それに続く東海大会で相次いで優勝し、翌年春の選抜出場権を獲得するも、

高校3年生春の甲子園大会の初戦・松商学園戦では、4番エースで出場すると、松商学園のエース・上田佳範投手との投げ合いになるのですが、上田投手に4打数3安打とメッタ打ちにされたうえ、打者としても5打席ノーヒットで終わり、チームも2対3で敗退しています。

また、最後の大会となった高校3年生夏の愛知県予選大会では決勝まで勝ち進むも、1991年7月30日、東邦高等学校との決勝戦に敗れてしまい、最後の夏は甲子園に出場することができませんでした。

ちなみに、イチローさんの高校3年間の通算成績は、対外試合151試合で、613打席536打数269安打で、打率5割1厘、本塁打19本、三塁打28本、二塁打74本、得点185、打点211、盗塁131だったそうです。

Sponsored Link

イチローは愛工大名電時代、ドラフトにかからなければ東都リーグの大学に入ろうと考えていた

こうして、公式での野球部の活動を終えたイチローさんは、プロ入りに向け、自主トレーニングに励んでいたそうですが、

(イチローさんは、高校3年生の春にセンバツ出場が決まった頃からプロだけを目指していたそうです)

いくらイチローさんがプロになりたいと望んでも、ドラフトがある以上、声がかからなければどうしようもなかったことから、もし、声がかからなかった場合は、大学へ行き、4年後のチャンスにもう一度賭けようと、お父さんと話し合っていたそうで、

東京方面に出て、東都リーグの大学に入ろう

と、かなり具体的に考えていたのだそうです。

ちなみに、イチローさんの父・宣之さんによると、ドラフト会議前日には、オリックスと阪神が、(指名順位までは明かさなかったものの)イチローさんを指名する旨を連絡してきたほか、

日本ハムファイターズのスカウトもドラフト会議前に「逆指名してくれませんか」と申し入れてきたそうですが、「高校生としては生意気な行為になるから」と、この申し出を断ったそうです。

また、愛工大名電の中村豪監督のもとには、プロ野球12球団全てから挨拶があったそうで、

鈴木さん、心配しないでいいよ

と、中村豪監督からは盛んに声をかけてもらっていたそうですが、

こればかりはどうなるか分からず、宣之さんは密かに、万が一、イチローさんがドラフトにひっかからず、大好きな野球で生きていくことができなかった場合には、二人で何か事業をやろうという計画も持っていたのだそうです。

「イチローは高1の時「野球をやめたい」と言っていた!その理由とは?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link