1991年、オリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で指名され、契約金4000万円、年俸430万円でオリックス・ブルーウェーブに入団したイチローさんは、オリックス時代の1年目と2年目は、二軍では無双状態も、一軍では思うような成績が残せず、一軍と二軍を行ったり来たりしていたのですが、
1993年秋に「振り子打法」を完成させると、3年目の1994年には、ついに才能を開花させ、当時、NPB史上最多安打となる210安打で首位打者を獲得するほか、様々な記録を打ち立てます。
「イチローはオリックスにドラフト3位指名(4位ではなく)されるはずだった?」からの続き
イチローはオリックス1年目に二軍で4月に月間打率4割3分2厘の好成績を残していた
イチローさんは、オリックス1年目の1992年は、二軍からスタートしているのですが、4月2日、(一軍のオープン戦にあたる)二軍の教育リーグの広島東洋カープ戦で、センターでスタメン出場し、3打数1安打を記録すると、
以降、4月14日の福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)戦まで、8試合連続安打(うち4回はマルチ安打)を記録する活躍を見せると、4月15日からは再びヒットを量産。
結果、4月の月間成績は74打数32安打で、打率4割3分2厘という好成績を残しています。
イチローは入団1年目、二軍キャンプで通常6ヶ月かかる課題を3ヶ月でクリアしていた
ちなみに、当時、二軍打撃コーチだった河村健一郎さんは、二軍キャンプで、イチローさんに、
- 基礎体力をつくる
- 左方向に打つ打撃を身につける
- 引っ張るパワーをつける
という課題を出したそうですが、
イチローさんの進化は予想以上の速さだったそうで、二軍戦に調整登板した近鉄のエース・阿波野秀幸投手から左前安打するほか、5月中旬にはナゴヤ球場で右翼へ場外本塁打を放ち、6ヶ月かかるだろうと予想していた課題を、たった3ヶ月でクリアしたのだそうです。
(河村健一郎さんは、二軍キャンプの第1クールが終わった時、二軍監督の根来広光さんに、イチローさんを1年間、1番センターで使ってくれるよう頼んだそうです)
イチローの一軍初ヒットは入団1年目1992年7月12日のダイエー戦
そんなイチローさんは、入団1年目の1992年7月10日、ついに一軍入りすると、翌日7月11日には、平和台球場で行われた福岡ダイエーホークス17回戦で、左翼手・村上信一選手に代わる守備固めとして一軍初出場を果たすのですが、この日は2打数ノーヒットに終わってしまいます。
それでも、翌日の7月12日のダイエー戦で9番レフトで初スタメン出場すると、5回表、木村恵二投手が投げた直球を右翼に打ちプロ初安打を記録したのでした。
イチローは入団1年目はジュニア・オールスターゲームの重要な場面でホームランしMVPを獲得していた
しかし、やがて、イチローさんは、土井正三監督ら一軍首脳陣から、独特の打撃フォームを批判されるほか、成績も伸び悩んだことから、二軍落ちしてしまいます。
オリックス入団1年目と2年目には、独特の打撃フォームを巡って土井正三監督ら一軍首脳陣との対立が取り沙汰され、実際、一軍と二軍を行ったり来たりしていたことから、土井正三監督との確執が噂されたイチローさんですが、実際には、イ …
それでも、7月17日、東京ドームで開催されたジュニア・オールスターゲーム(二軍のオールスターゲーム)では、3対3の同点で迎えた8回表、1点入れば試合が決まるという重要な場面で、7番・中村紀洋選手の代打として起用されると、
大洋(現・横浜DeNAベイスターズ)の有働克也投手が投じた2球目のスライダーを、体全身コマのように回転して振り抜き、東京ドームライトスタンド最上段に叩き込んでおり、MVPを受賞し賞金100万円を獲得しています。
(イチローさんは、この試合は、途中出場だったのですが、2打数2安打1盗塁、勝利打点と大活躍でした。ちなみに、賞金の100万円は神戸の養護施設に寄付しています)
イチローの入団1年目は首脳陣との対立の影響もあり一軍に定着することはできなかった
そんなイチローさんは、この年(1992年)、シーズン終盤には、一軍でスタメン出場することが増えるのですが、やはり、打撃フォームを巡る首脳陣との対立の影響もあり、
1番バッターとして3試合、2番バッターとして5試合、9番バッターとして13試合に出場するも、95打数24安打、打率2割5分3厘という成績で、一軍に定着することは出来ませんでした。
(ただ、二軍では首位打者(打率3割6分6厘)になっています)
イチローの入団2年目は二軍では30試合連続安打ほか無双状態も、一軍成績は打率1割8分8厘に終わっていた
それでも、2年目の1993年は、4月10日の開幕戦と4月11日の第2戦にスタメンで起用されると、以降、11試合に出場するのですが、12打数1安打に終わってしまい、4月25日には二軍に降格。
すると、二軍では、いきなり4月25日の広島戦で2安打を放ち、以降、13試合連続安打を記録したことから、またまた、5月21日には、再び一軍に昇格。(代打や守備固めで出場)
そして、6月12日の近鉄バファローズ戦(長岡市悠久山野球場)では、8回表、(4打席目に)野茂英雄投手から右翼越えのプロ初本塁打を放ち、以降、6月23日までスタメン起用されるのですが・・・
打率1割7分8厘と精彩を欠き、7月4日の出場を最後に、7月6日、再び、二軍行きを命じられたのでした。
すると、やはり、イチローさんは、二軍では無双状態で、
- 7月6日 中日戦(神戸第二)で4打数1安打を記録(連続試合安打は「14」)
- 7月13日 広島戦(みろくの里)で4打数4安打の固め打ち(連続試合安打は「19」)
- 7月25日 阪神戦(新居浜)で2本塁打の4打数2安打(連続試合安打は「23」)
- 8月1日 広島戦(神戸第二)で5打数3安打で(連続試合安打は「27」)
と、記録を伸ばし、8月8日の阪神戦(湖東)で、30試合連続安打を記録。
そこで、9月4日には、一軍に昇格し、シーズン終了まで一軍にとどまるのですが、結局、1993年のイチローさんの(一軍の)シーズン成績は、64打数12安打、打率1割8分8厘に終わっています。
イチローは入団3年目、史上最速122試合目でシーズン200安打を達成していた
しかし、イチローさんは、1993年秋には、河村健一郎二軍打撃コーチと共に「振り子打法」を完成させると、3年目の翌1994年には、土井正三さんが監督を退任して、後任に仰木彬さんが監督に就任し、イチローさんの高いポテンシャルを見抜いた仰木彬監督により開幕から一軍で使い続けられると、
見事、才能を開花させ、同年9月には、史上最速となる122試合目でシーズン200安打達成という偉業を成し遂げたのでした。
また、イチローさんは、この年、シーズン200安打達成のほかにも、
- 5月と6月 史上初めて2ヶ月連続月間40安打以上を記録
- 5月21日ダイエー戦~8月26日近鉄戦にかけてプロ野球新記録となる69試合連続出塁
- シーズンマルチ安打(69回)の日本記録
- 44年ぶり2人目となるシーズン20試合連続安打を複数回達成
と、驚異的な記録を打ち立てています。
イチローは入団3年目でNPB史上最多の210安打し首位打者を獲得していた
そんなイチローさんは、1994年、最終的には、210安打(当時のNPB最多記録)、打率3割8分5厘(当時のパ・リーグ記録)で、最多安打と首位打者を獲得するほか、最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、正力松太郎賞を獲得し、打者としてはNPB(日本プロ野球)史上最年少でシーズンMVPを獲得しているのですが、
この年、イチローさんが、日本プロ野球史上初めて年間200安打を記録し、最終的には210安打と記録を伸ばしたため、安打数が話題となり、この年から年間の最多安打をタイトルとして表彰されるようになっています。
イチローの入団3年目のバッティングの凄まじさについての証言
ちなみに、この年(1994年)のイチローさんのバッティングの凄まじさについて、
近鉄バッファローズの古久保健二捕手が、
本能のままに打っているような感じだからね。打たれたからつぎは裏の配球なんてことをやっても意味がない。打たれても同じ攻めを続けるしかなかった
と、駆け引きが通用しなかったことを明かしているほか、
(イチローさんは、基本的に苦手は球はなく、狙いを絞って打つような打者でもなかったそうです)
千葉ロッテマリーンズの園川一美投手も、
最初はこっちが左なので、そんなに打たれないだろうって思っていた。外角にスライダーを甘くならずに投げていれば、大きいのを打たれることはないだろうってね。
でも、ほかの左打者ならきっちり打ち取れるスライダーを何度もヒットにされた。それで手がなくなった感じでね
(先発として、翌日に対戦する打者を1回の1番からイメージして投球を組み立ててみたそうですが)ところがオリックスの場合はイチローが1番にいるので打ち取るイメージが浮かばない。だから1回から全然イメージトレーニングが進んでいかないんだ
と、語っています。
「イチローが土井正三監督に「振り子打法」を否定され干されていたは嘘?」に続く