1964年にプロ入りすると、1970年代は、尾崎将司さんととともに「AO時代」、1980年代は、そこに中嶋常幸さんが加わり、「AON時代」と呼ばれ、常にツアーの中心に君臨していた、青木功(あおき いさお)さんですが、プライベートでは、2度の結婚と1度の離婚を経験しており、現在の奥さんとはダブル不倫での再婚だったといいます。
今回は、そんな青木功さんの元妻、現在の妻とダブル不倫で再婚に至った経緯、現在の妻の子供(連れ子)を養子縁組した話をご紹介します。
青木功の元妻(最初の妻)との馴れ初めは?
青木功さんは、最初の奥さんとは、ゴルフの研修生だった1964年頃に知り合い、交際をスタートさせると、プロテストに合格したら結婚すると周囲に話し、その3年後の1967年頃に結婚したそうです。
(奥さんは青木さんと同じ千葉県我孫子市出身で、丸顔の美人だったといいます)
ちなみに、当時、新米のゴルフ記者で、青木功さんを担当したという、スポーツジャーナリストのデューク石川さんは、
駆け出しゴルフ記者だった頃、私は青木とツーカーだった。担当になった1974年。金看板はマスターズ8位実績のジャンボ尾崎(尾崎将司)。
だが尾﨑番記者としては、先輩の樋口恭さんが,圧倒的に食い込んでいた。そこで私が着眼したのが、売り出し中だった青木。1月末。担当になった翌日、暗いうちに家を発ち、飯能の青木の家に霜柱を踏んで、いわゆる朝駆けをしている。
私としては担当になった挨拶。だが青木は驚いた。普通、記者とはゴルフ場で会うモノ。そこへ顔も知らない男が、それもアポなしで、朝早く訪れたのだから。
だが事情を説明すると、逆に青木は喜び「これから仕事で都心へ出る。よかったら」と、運転手付きの大型アメ車に同乗。
車中で取材も出来た。余談だが、運転手さんは横山さん。お父さんが春日野部屋に所属していたお相撲さんだったそうだ。車は横山さん付きで「後援者から提供されている」とも話していた。勿論この時奥さんも紹介され、挨拶している。
と、フェイスブックで綴っています。
青木功は現在の妻・チエとはダブル不倫の関係だった
しかし、青木功さんは、1971年、遠征先の沖縄でチエ・ブッシュネル(本名・宏子)さんと知り合い、ダブル不倫の関係になっていたといいます。
(チエさんは、当時、アメリカ兵と結婚しており、ジョエンさんという娘がいました)
前述の石川さんは、1975年にチエさんを初めて目撃したそうで、その時のことを、
翌75年、私はマスターズを初めて取材する。青木は二度目の出場。すっかり意気投合する仲になった筆者は、西海岸まで青木と同じJALに乗る。或る種の箱乗りだ。ただし私は会社の出張。エコノミークラス。
心根の優しさ。青木は水割りのグラスを両手に、ファーストクラスと私の処を往復する。私には見知らぬ世界。そこを一度経験している青木は、オーガスタそしてマスターズの素晴らしさを、得々と私に聞かせてくれた。そしてロスで一度別れオーガスタで合流する。その時点で、まず分からなくなる。
週初めの朝、青木が丸一軒借りていた民家を訪れる。その家の寝室から、パジャマ姿のアジア人女性が、遠慮することもなく現れたことだ。それが筆者が、チエを目撃した最初だった。
「飯能の自宅には、奥さんがいたはずなのに」。勿論この時点で、チエの存在は、日本では伝えられていない。肉体労働で大金を稼げる、若い職業運動選手。「一週間の浮気か。仕方ないか」と私は、軽く流していた。
と、フェイスブックに綴っており、青木功さんがチエさんと不倫関係だったことが分かります。
青木功と現在の妻・チエとの馴れ初めは?
青木功さんによると、チエさんとの出会いは、1971年、青木功さんがプロになって初めて優勝した関東プロゴルフ選手権で、ウイニングボールをポーンと投げると、チエさんの娘で当時4歳だったジョエンさんの足元に転がっていったそうで、
その後、沖縄での大会が開催された際、チエさんから「この間、ボールをもらった」と言われたことがきっかけで知り合い、交際をスタートさせたそうです。
ただ、この話は、青木功さん(またはチエさん)の作り話ではないかとも言われています。
というのも、青木功さんをよく知る同世代のプロ仲間は、
沖縄でのプロトーナメント。前夜祭に基地の女性(米兵の奥さんと言う意味)も沢山招かれ、花を添えた。
その中の一人と俺は親しくなった。見渡したら青木が一人でいた。そこでリザーブの積もりで、押さえていた女性を青木に紹介した。それがチエだった
と、証言しているからです。
青木功は現在の妻・チエとの関係について日経新聞「私の履歴者」に嘘を書かせていた?
その後も、青木功さんとチエさんの関係は人知れず続いていたそうですが、1978年、青木功さんが、世界マッチプレー選手権で優勝すると、これまで秘密にしていたチエさんの存在が明るみに出てしまいます。
というのも、勝利の瞬間、青木功さんがチエさんを抱きしめていている姿が当時の週刊誌に掲載されたからなのですが、
青木功さんは、2010年、日経新聞「私の履歴者」での連載で、この時のことを、
「優勝で抱擁、交際ばれる」と題し、この勝利の瞬間に16番で私が女性を抱きしめている写真が”青木、イギリスで世界初制覇”のタイトルとともに日本でも大きく報道された。
実は彼女は夫と一年間の期限付き協議離婚(別居生活)中で、正式に離婚は成立していなかった。写真を撮られた女性はかみさんとなるチエで”これは、まずいことになった
と、綴っています。
青木功さんは、この時、奥さんとは離婚していたようですが、チエさんに関しては、1975年のオーガスタで、すでに青木功さんの担当記者に、青木功さんが丸一軒借りていた民家の寝室からチエさんが出てくるところを目撃されており、「一年間の期限付き協議離婚(別居生活)中」というのは辻褄(つじつま)が合いません。
(実際、その後、青木功さんは、「青木功、私の履歴書には書けない、前妻へのヒドイ仕打ち」のタイトルで、週刊文春に報じられています)
また、日経の担当者は、
掲載の一ヶ月、毎日冷や冷やでした。本当の話を知る読者から、何時クレームが付くか。そのことが心配で
と、語っていたそうなので、
青木功さん(またはチエさん)が日経新聞に真実ではないことを書かせていたと考えられています。
(青木功さんは奥さんと離婚後にチエさんと知り合ったのではなく、長年、チエさんとはダブル不倫の関係にあったと考えられています)
青木功と現在の妻・チエとの夫婦仲は良好
さておき、青木功さんは、1978年には、チエさんと再婚しています。
(1979年、2年連続で「世界マッチプレー選手権」で活躍した青木功さんは、記者会見にチエさんを同行させ、チエさんは「夫人」として紹介されています)
ちなみに、まだ不倫関係にあった1975年、マスターズが開催される際には、
青木功さんが、
俺、アメリカに行きたい
と、チエさんに言うと、
チエさんは、
英語できるの?
と、言ったそうで、
青木功さんは、
できないけど、おまえがいるじゃないか。行こう
と、言って、チエさんを帯同させたそうですが、
海外ツアー中は、英語が話せない青木功さんに代わり、英語が話せるチエさんが通訳兼マネージャーとして試合に同行するほか、飛行機の手配、試合のエントリーの手続き、日常の食事の支度まですべて引き受けていたといいます。
また、青木功さんが、当時「帝王」と呼ばれたジャク・二クラウスさんと親しい関係になれたのも、チエさんが二クラウスさんの妻・バーバラさんと仲良くなったからだと言われており、チエさんは公私にわたり、青木功さんをサポートしていたといいます。
また、青木功さんは、チエさんと結婚してから洋服のセンスがよくなったと言われているのですが、
青木功さんは、
ズボンにタートルネックのシャツばっかりで、ボタンがついたシャツなんて一回も着たことなかったからね。僕は着せ替え人形ですよ。
「はい、月曜日はこれ、火曜日はこれ、水曜日は……」ってスーツケースに入れてくれて、僕は髭剃りとか歯磨きとかを小さな袋に入れて、それをポンとスーツケースに入れておしまい。
と、語っています。
そして、青木功さんは、2019年のインタビューでも、出かける時は、チエさんに必ずキスをすると語っており、今も変わらず、チエさんにベタ惚れのようで、夫婦仲は良好のようです。
青木功は現在の妻・チエの子供(連れ子)を養子縁組していた
青木功さんは元妻(最初の奥さん)との間に、子供が一人いると言われているのですが、真偽は不明です。
ただ、現在の妻・チエさんには、1970年頃に誕生したジョエンさんという連れ子(前夫との間の子供でアメリカ人とのハーフ)がおり、青木功さんは、チエさんと再婚すると、ジョエンさんを養子縁組したそうで、
青木功さんは、
僕が女房と一緒になったときに、「ジョエンがどうするかは彼女に選ばせたい。ついてくるならすぐ養子縁組するから」と言って、ついてきたからすぐ養子縁組したの。
娘は他人だと思ってないからね。好きになった女房の子どもなんだから、俺の子どもと一緒だと考えてるんで。
と、語っており、
ジョエンさんを溺愛し、大人になった今でも、時々お小遣いをあげているのだそうです。
また、青木功さんは、ジョエンさんに初めて「お父さん」と呼ばれた時のことを、
女房が「ジョエン(娘さんの名)に何て呼んでほしいの?」って言うから、「俺、『パパ』っていうほどじゃねえから、『お父さん』がいいや」って言ったら、
それから1カ月か2カ月たって、3人でごはん食べてるときに、娘がいきなり「お父さんさあ」って言うんですよ。
おっ、やっと「お父さん」って呼んでくれたと思って、隣の部屋に行って泣きました。
と、語っています。
さて、いかがでしたでしょうか。
現役時代は、日本プロゴルフ界において素晴らしい成績を残し、2016年にJGTOの会長に就任してからも、ゴルフ界の発展に尽力した青木功さん。(2024年には退任)
一方、プライベートはというと、褒められたものではなかったかもしれませんが、チエさんとの出会いを「運命の出会い」と語っていることから、青木功さんがゴルフで素晴らしい成績を残せたのは、運命の人であるチエさんの内助の功が大きかったのかもしれませんね。