日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝ほか、プロゴルフの世界で数々の金字塔を打ち立てた、「ジャンボ尾崎」こと尾崎将司(おざき まさし)さんですが、少年時代からゴルフをやっていた訳ではなかったといいます。
今回は、そんな尾崎将司さんがどのような経緯でゴルフを始めたのかを、生い立ちからご紹介します。
尾崎将司(ジャンボ尾崎)のプロフィール
尾崎将司さんは、1947年1月24日生まれ、
徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)の出身、
身長181センチ、
体重90キロ、
血液型はB型、
本名は、「尾崎正司(読みは同じ)」で、プロ野球時代は本名を登録名として使用していたそうですが、プロゴルフに転向すると同時に、本名の「正司」から「将司」に改名したそうです。
学歴は、
徳島海南高等学校卒業、
趣味は、刀剣だそうです。
尾崎将司(ジャンボ尾崎)は幼少期から運動神経抜群だった
尾崎将司さんは、元軍人で厳しいお父さんと優しいお母さんのもと誕生すると、徳島の自然に恵まれた環境の中で育ったそうです。
また、尾崎将司さんは、幼い頃から活発で足が速く、運動神経抜群の子供だったそうです。
尾崎将司(ジャンボ尾崎)は高校時代には投手として甲子園(春のセンバツ高校野球)で初出場初優勝していた
プロゴルフで素晴らしい成績を残した尾崎将司さんなので、少年時代からゴルフの英才教育を受けていたと思いきや、実は、野球少年だったそうで、
高校は地元・徳島海南高等学校に進学し、野球部に入部すると、1964年には、エースとして春の選抜高校野球大会に出場。
しかも、決勝まで勝ち進むと、決勝では尾道商のエース小川邦和に投げ勝ち、初出場で初優勝を果たしてます。
(同年夏は、地方予選の南四国大会準決勝で、有藤通世(後にロッテオリオンズ)さん率いる高知高に延長12回で敗退しています)
高校時代の尾崎将司さん。
尾崎将司(ジャンボ尾崎)は高校卒業後はプロ野球の西鉄ライオンズに入団していた
そんな尾崎将司さんは、高校時代の甲子園での活躍を買われ、1965年には、プロ野球の西鉄ライオンズに入団すると、1年目から1軍に抜擢され、9月には先発投手として起用されるのですが、
- 1965年 0勝1敗(17試合登板 3先発 39投球回 防御率4.85 WHIP1.23)
- 1966年 0勝0敗(3試合登板 0先発 2.1投球回 防御率4.50 WHIP3.00)
と、結果を残せず、
そんな中、同期の池永正明さんの才能を目の当たりにし、
こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い
と、ピッチャーをあきらめ、1967年には外野手に転向。
すると、二軍では4番打者として活躍するも、一軍では、
- 1967年 29試合出場 42打数2安打 打率.048 本塁打0 三振24
と、思うような成績を残せず、
この年(入団3年目)で、プロ野球選手を引退したのでした。
尾崎将司(ジャンボ尾崎)がプロ野球をわずか3年で引退した理由とは?
ちなみに、西鉄球団は、年明けまで慰留したそうですが、尾崎将司さんの決意は固く、翻意することはなかったそうで、
後に、尾崎将司さんは、
池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった
と、語っており、
つまりは、野球とは異なる世界で、再チャレンジしようと、ゴルフに転向したのでした。
「【画像】尾崎将司の若い頃からの活躍や経歴を時系列まとめ!」に続く
西鉄ライオンズ時代の尾崎将司さん。
1970年、ゴルフのプロテストを受けて合格すると、翌年の1971年には、いきなり、日本プロゴルフ選手権で初優勝し、以降、日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝と、数々の金字塔を打ち立てた、「ジャンボ …