1969年、20歳の時、ストリップ劇場の幕間コントで芸人デビューし、「アメマ」「かい~の」「ワシ、止まったら死ぬねん」などのギャグで、大阪で絶大な人気を博すと、東京進出後は、24時間テレビ「愛は地球を救う」の初代チャリティーランナーを務めたことがきっかけでバラエティ番組に出演するようになり、一躍、お茶の間の人気者になった、間寛平(はざま かんぺい)さん。

今回は、そんな間寛平さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

間寛平

「間寛平の生い立ちは?高卒後は歌手を目指すもストリップ劇場で芸人デビューしていた!」からの続き

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間寛平の20代の頃

21歳の時に吉本興業に移籍

1969年、20歳の時、ストリップ劇場の幕間コントで芸人デビューした間寛平さんは、やがて、ストリップ劇場の幕間コントで人気を博すのですが、

ストリップ劇場のお客さんは、当然、男性ばかりだったことから、1年ほど経った頃、女性や子供が来てくれる舞台に出たいと、中学の時の同級生に相談すると、その同級生の紹介で、1970年10月、21歳の時、吉本興業に移籍し、吉本新喜劇の研究生になったそうです。

(その中学の時の同級生は、間寛平さんが交通事故で入院中、芸人になろうと思い立って相談し、漫才師の鳳啓助さんを紹介してくれた人でした)

21歳の時に吉本新喜劇の舞台に立つもセリフの訛りが強すぎることを理由に降ろされていた

すると、間寛平さんは、さっそく舞台に立ったそうですが、セリフの訛(なま)りが強すぎると言われ、すぐに降ろされてしまったそうで、

その後、幕引きや座長の花紀京さんの付き人に回されたそうですが、しょっちゅうミスをしては怒られ、自信を失いかけていたそうです。

21歳の時に木村進とコンビを組み「アメマ」「かい~の」「ワシ、止まったら死ぬねん」などのギャグでブレイク

そんな中、間寛平さんの面白さを理解していた、役者仲間の木村進さんが、自分が相手役をやるからと言って舞台に戻してくれたそうで、

以降、木村進さんとのコンビで活動するようになると、間寛平さんは、「アメマ」「かい~の」など、アドリブでギャグを繰り出すほか、暴走老人に扮した「ワシ、止まったら死ぬねん」などのギャグで、たちまちブレイクを果たしたのでした。

間寛平と木村進
木村進さん(左)と間寛平さん(右)

24歳で吉本新喜劇の座長に昇格

すると、間寛平さんは、それから4年後の1974年、24歳の時には、吉本新喜劇の座長に昇格したそうで、

「笑いを取ったら勝ち」という感じやった。ギャグばかりやっていたので、芝居は苦労したけれど

と、語っています。

(間寛平さんと木村進さんの人気があまりにもすごいため、吉本興業は、二人を別々にし、それぞれ新喜劇の座長に据えたのだそうです)

24歳の時には池乃めだかとコンビを組んでいた

その後、間寛平さんは、新しく吉本新喜劇に加わった池乃めだかさんとコンビを組むようになると、この時、”間寛平さんの猿”と”池乃めだかさんの猫”のギャグが誕生するのですが、

間寛平さんは、以降、この猿のモノマネが得意ネタの一つとなったそうです。

(後に、「笑っていいとも!」で披露しています)

ちなみに、間寛平さんは、先輩である池乃めだかさんに随分、助けられたそうで、

(吉本新喜劇の座長時代は)大変やったなぁ。終わったらすぐに台本の手直しせなあかんし、他の座員のことも考えなアカン。24歳のボクにそんな力あれへん。

そんなとき助けてくれたんが、めぐ兄ぃ(池乃めだかさん)やった。台本はちゃんと手直ししてくれるし、それがまたおもろいんや

と、語っています。

間寛平と池乃めだか
池乃めだかさん(左)と間寛平さん(右)

26歳の時に「ひらけ!チューリップ」で歌手デビュー

そんな間寛平さんは、1975年、26歳の時には、パチンコのコミックソング「ひらけ!チューリップ」で歌手デビューも果たすと、100万枚を売り上げる大ヒットを記録。

間寛平の「ひらけ!チューリップ」
「ひらけ!チューリップ」

また、翌年の1976年には、日活ロマンポルノ「濡れた欲情・ひらけ!チューリップ」にも主演しています。

29歳の時には複数人の連帯保証人になり逃げられて借金地獄に陥っていた

こうして、間寛平さんは、順調満帆な芸能生活を送っていたのですが、人から何か頼まれても嫌と言えない性格が災いし、芸人仲間など、いろいろな人から頼まれては、借金の連帯保証人を引き受けていたそうで、

ほとんどの人が逃げてしまったことから、多額の借金を抱え込むことになったそうで、1978年(29歳)頃には借金地獄に陥り、12~13年間は毎日のように借金取りが楽屋や自宅に押しかけてくるという地獄のような日々を送ったのだそうです。

間寛平の30代の頃

37歳の時には一発当てて借金を返済しようと「アメママン」バッジを10万個製作するも全く売れず借金は6000万円に膨れ上がっていた

その後、間寛平さんの借金は5000万円近くまで膨れ上がったそうですが、そんな中、一発当てて返済しようと思い立ち、1986年、37歳の時には、自身の番組のキャラクターで、人気が出始めた「アメママン」を模したバッジを10万個製作したそうですが・・・

その直後に番組が終了してしまったことから、バッジは大量に売れ残り、借金は6000万円(1億円という話も)に膨れ上がったそうで、

間寛平さんは、

『一発返そう』と思ってアメマバッジに手を出した。ほんま泣きました

と、語っています。

「アメママン」のバッジ
「アメママン」のバッジ。

37~38歳の時には自ら地方営業をして稼がなければならなくなっていた

実は、間寛平さんは、吉本にもお金を借りていたことから、37歳~38歳の時にはついに吉本にも見放されしまい、自ら地方営業をして稼がなければならなくなったそうです。

(この頃、吉本興業は「なんばグランド花月」をオープンしたのですが、メインは、落語、漫才、海外の音楽ショーだったそうで、人気に陰りの見え始めた新喜劇は外された形となっていたそうです)

間寛平の40代の頃

40歳で吉本新喜劇を退団し東京進出

そんな間寛平さんは、1989年、40歳の時には、吉本新喜劇からの退団を決め、東京へ進出するのですが、

その理由について、

(ファンの要望で「なんばグランド花月」での新喜劇の復活が決まったものの)ところがや。ポスターを見たら〝吉本新喜劇(コメディー)〟とだけあって、役者の名前が一人も載ってへん。

会社に行って文句いうたよ。名前ぐらい載せてくださいよ。ここまでがんばってきたベテランもおるし-ってな。けど、いつまでたっても載せようとせん。頭にきてけんかになってしもた

(それから)何カ月かたって営業に行った岡山の旅館で寝とったら、午前3時ごろに目が覚めた。そしたら、畳の目が〝東京いけ、東京いけ〟と言うてるんや。これだけ、畳の目が言うてるんやから-と決心したんや

と、不思議な体験をしたことがきっかけだったと語っています。

40歳で上京した当初はたけし軍団に加入を希望していた

こうして、間寛平さんは、1989年、40歳の時に上京したそうですが・・・

関東では知名度がないため、まったく仕事がなかったそうです。

そこで、まず、ビートたけしさんを頼り、たけし軍団に入れてもらおうとしたそうですが、大阪での間寛平さんの活躍を知る、ビートたけしさんの運転手から諭され、取りやめたそうで、

その後、萩本欽一さんを頼ったり、島田洋七さんと漫才コンビを結成したりもしたそうで、あっちに行ったりこっちに行ったりしていたのだそうです。

41歳の時に明石家さんまに誘われて「痛快!明石家電視台」に出演

そんな中、明石家さんまさんが、

兄やん、借金あるやろ。新しい番組あるから、やる?

と、「痛快!明石家電視台」に誘ってくれたそうで、

間寛平さんは、

じゃあ、頼むわ

と、二つ返事でOKし、

1990年、41歳の時に、「痛快!明石家電視台」に出演したのだそうです。

「痛快!明石家電視台」に出演する間寛平
「痛快!明石家電視台」に出演する間寛平さん。

ちなみに、間寛平さんは吉本興業に退職を伝えたそうですが、引き止められ、結局、吉本興業の東京事務所預かりとなったそうですが、漫才ブームが終わった後だったことから、稼げる見込みはなかったそうです。

そんな中、同じ吉本興業の明石家さんまさんの人気はずっと続いていたそうで、間寛平さんは、上京した当初は、さんまさんの使わなくなったベッドやタンスなどお下がりをもらって暮らしていたそうで、さんまさんは、間寛平さんが仕事がなくて困っているのを察して声をかけてくれたのだそうです。

42歳の時に「笑っていいとも!」で披露したギャグ「引きずり女」がヒット?

そんな間寛平さんは、1991年、42歳の時には、マネージャーの必死の売り込みで、「笑っていいとも!」に5分間だけ出演するチャンスを得たそうで、「引きずり女」というギャグを披露したそうですが・・・

びっくりするぐらい客席はシーンとなってしまったのだそうです。

しかし、タモリさんや片岡鶴太郎さんがすごく笑ってくれ、そこだけをテレビで映して放送してくれたことから、全国の人が、あれは面白いものだと勘違いしてくれてヒットとなったそうで、

その年の紅白歌合戦にもゲストで呼ばれ、「引きずり女」のギャグを披露したそうですが・・・

やはり、大きなNHKホールでは、かつてないほど、スベリ倒してしまったのだそうです(笑)

引きずり女
「引きずり女」に扮する間寛平さん。

43歳の時に24時間テレビ「愛は地球を救う」の初代チャリティーランナーを務めていた

また、間寛平さんは、超長距離マラソンにも取り組み、1991年には、ギリシャの「スパルタスロン」(246キロマラソン)を完走しているのですが、

1992年、43歳の時には、24時間テレビ「愛は地球を救う」の初代チャリティーランナーを務めると、これがきっかけとなり、バラエティ番組に呼ばれるようになり、全国のお茶の間の人気者となったのでした。

間寛平の50代の頃

そんな間寛平さんですが、2008年12月~2011年1月(59歳~61歳の時)には、アースマラソンに挑戦するため、レギュラー番組を全て降板し、4万1000kmにも及ぶ距離を走り切っています。

アースマラソンで完走する間寛平

間寛平の60代の頃

そして、間寛平さんは、2016年、67歳の時には、若手芸人の育成を目的として、「劇団間座」を立ち上げるなど、若手の育成に注力しています。

劇団間座
「劇団間座」

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間寛平の現在は?

また、間寛平さんは、2022年、73歳の時には、吉本新喜劇のゼネラルマネージャー(GM)に就任しているのですが、実は、引退を考えていた2021年6月にオファーがあったそうで、

間寛平さんは、

社長から『若手を育ててほしい』と言われた。『僕、まだ育ってないねんけど、大丈夫ですか?』と聞き返しまして

引退を考えていたときなんですよ。でも頼まれて、僕でも必要なのかと考えて、頑張ってみようかという気持ちになりました

と、語っており、

間寛平さんのお笑いへの情熱はまだまだ衰えそうにありません。

「間寛平の妻との馴れ初めは?結婚後は?現在の夫婦関係は?」に続く

間寛平

お読みいただきありがとうございました

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