1953年、帝国劇場のミュージカル「赤い絨毯」で、バックコーラスの一員として初舞台を踏むと、1965年には、吉本新喜劇での「キビシー」「助けてチョーダイ」のギャグで、一躍、注目を浴び、その後は、タケモトピアノのCMでもおなじみとなった、財津一郎(ざいつ いちろう)さん。

そんな財津一郎さんは、熊本県阿蘇に土地を持つ優しいお父さんとお母さんのもと、幼少期は、何不自由なく、すくすく育つも、少年時代は戦争に翻弄され、終戦後は、農地改革で多くの土地を失い、シベリアで抑留されたお父さんを待ちながら、わずかに残った土地で慣れない農業をするほか、地主と小作人の立場が逆転してイジメられるなど、悲惨な日々を過ごしたといいます。

しかし、高校生の時には、第五高等学校(現・熊本大学)の男性合唱団の歌声に魅了され合唱に夢中になると、このことがきっかけで、お芝居にも興味を持つようになり、役者を志したといいます。

今回は、財津一郎さんの、生い立ち(幼少期から「帝国劇場の研究生」時代)までをご紹介します。

財津一郎

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財津一郎のプロフィール

財津一郎さんは1934年2月22日生まれ、
熊本県熊本市中央区京町瀬戸坂の出身、

身長176センチ、

血液型はO型、

学歴は、
熊本師範学校男子部付属国民学校(現・熊本大付属小学校)
⇒熊本県立済々黌(せいせいこう)高等学校(旧制中学済々黌)
⇒阿蘇農業学校
⇒阿蘇農業高等学校(現・熊本県立阿蘇中央高等学校)
⇒熊本県立済々黌高等学校(復学)卒業

趣味は、ゴルフだそうです。

財津一郎が幼い頃は裕福で優しい両親のもとすくすくと育っていた

財津一郎さんは、熊本にルーツを持つ由緒正しい家柄で、農林水産省の役人だったお父さんの永康さんとお母さんの房子さんのもと、6人兄弟(4男2女)の三男として、熊本で誕生すると、

1939年、5歳の時には、お父さんが本省に転勤となったため、熊本から東京・阿佐ヶ谷に転居したそうです。

そんな財津一郎さんは、裕福で優しい両親のもと、すくすくと育ったそうです。

財津一郎は9歳の時には疎開先の熊本で熊本弁がわからず無口になりイジメられていた

しかし、1941年に太平洋戦争が開戦すると、お父さんに召集令状が届いて、お父さんは陸軍少尉として満州の守備隊に配属されることになり、その後、戦局が厳しくなると、1943年には、財津一郎さんも兄弟とともに熊本に疎開することになったそうですが、

疎開先では、なかなか熊本弁に慣れず、周囲とのコミュニケーションが取れずに苦労し、そのせいで、内向的で無口になり、イジメられたのだそうです。

財津一郎は小学5年生の時に玉音放送で終戦を知るも父親がシベリアに抑留されたまま帰還できず極貧生活となっていた

また、財津一郎さんは、1945年8月15日、小学5年生の時、玉音放送を聞いて太平洋戦争の終戦を知ったそうですが、終戦後も、お父さんは、シベリアに抑留されたまま帰ってくることができず、財津一郎さんの一家は極貧生活を余儀なくされたといいます。

財津一郎は11歳~13歳の時「脚気」になった母親のために食べ物をもらおうと農家を1軒1軒回っていた

こうして、財津一郎さん一家は、安否の分からないお父さんの帰還を待ちながら、極貧生活を耐え忍んでいたそうですが、

そんな極貧生活がたたり、財津一郎さんのお母さんは、極度の栄養不足と疲労で、「脚気(かっけ)」になってしまったそうで、

(※脚気とは、ビタミン欠乏症の一つで、ビタミンB1の不足によって心不全と末梢神経障害が起きる病気)

財津一郎さんは、食べ物をもらうため、子供用の衣類を持って農家を1軒1軒回り、ようやく、袋いっぱいの大豆をもらうことができたそうですが・・・

悪ガキたちに泥だらけにされてしまったそうで、財津一郎さんは、悔しくて悔してくたまらず、思わず涙がこぼれ落ちたそうです。

すると、見知らぬおばあさんが、家に招き入れてくれ、お餅を焼いてくれたそうで、財津一郎さんは、1つだけ食べ、残りの4つをお母さんに持って帰ることができたのだそうです。

財津一郎は13歳の時に「農地開放」でほとんど失った土地で母親と慣れない農業をしていた

その後、財津一郎さんは、財津家の土地がある阿蘇市に移住したそうですが・・・

先祖代々受け継いできた土地は、「農地開放」でほとんど失ってしまったそうで、わずかに残った土地で、お母さんと共に慣れない農作業をしながら、お父さんの帰還を待ったのだそうです。

(※「農地開放」とは、1947年、GHQの指揮下、政府が地主の土地を強制的にタダ同然で買い上げ、耕作していた小作人に売り渡した政策)

財津一郎は13歳の時にイジメを受けるも先生が教えてくれた「根アカ」の精神で生きることを決心していた

しかも、「農地開放」により、地主と小作人の立場が逆転したそうで、財津一郎さんは、イジメや嫌がらせを受けるようになったのだそうです。

ただ、そんな中、通っていた阿蘇農業高校の先生に「根アカ」の精神で生きることを教わると、それ以来、財津一郎さんは、先生の言葉を胸に生きていこうと決心したのだそうです。

財津一郎が13歳~14歳頃に父親が帰還するもすっかり別人のようになっていた

そして、1947~1948年頃、財津一郎さんの一家が暮らす阿蘇に、ようやく、お父さんが帰還したそうですが・・・

優しかったお父さんの面影はなく、すっかり別人のようになってしまい、財津一郎さんは、ショックを受けたそうです。

財津一郎は16歳の時に第五高等学校(現・熊本大学)の男性合唱団の歌声に魅了され合唱に夢中になっていた

そんな中、財津一郎さんは、1950年、16歳の時には、熊本市に戻り、阿蘇農業高校から済々黌(せいせいこう)高校に復学すると、

ある日のお昼休みのこと、隣の第五高等学校(現・熊本大学)から聴こえてきた男性合唱団の歌声に魅了され、すっかり、合唱に夢中になったといいます。

また、財津一郎さんは、合唱のほかにも、映画やブロードウェイミュージカルにも夢中になったそうです。

財津一郎は高校3年生の時にシェークスピアの英語劇「ベニスの商人」での演技が高く評価され役者を目指していた

そんな財津一郎さんは、高校3年生の時、文化祭で行われた、シェークスピアの英語劇「ベニスの商人」で、(大役の)金貸しのシャイロック役を演じると、その演技が高く評価されたそうで、

このことがきっかけとなり、役者になろうと、高校卒業後は、演劇の名門・早稲田大学を目指したそうですが、受験に失敗。

当初は、浪人しようと考えたそうですが、学力の向上が見込めず、金銭的な問題もあり、最終的には早稲田大学受験を断念したのだそうです。

財津一郎は19歳の時に帝国劇場の研究生となり「赤い絨毯」で初舞台を踏んでいた

ただ、どうしてもミュージカル俳優への夢があきらめきれずにいた財津一郎さんは、その後、偶然、帝国劇場の研究生募集の新聞広告を見つけ、早速、応募し、簡単な面接と歌のテストを受けると、見事、合格したそうで、

1953年、19歳の時には、「赤い絨毯」で、バックコーラスの一員として初舞台を踏んだのだそうです。

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財津一郎が20歳~21歳の時には帝国劇場が解散となり芸を極めるべく職探しを始めていた

しかし、それから2年も経たないうちに、帝国劇場は解散していまい、周りの研究生達が東宝演劇部や撮影所で働くことになる中、財津一郎さんは、若い頃の苦労は買ってでもしようと、芸を極めるべく職探しを始めたのだそうです。

「【画像】財津一郎の若い頃が凄い!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く

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