1968年4月にフジテレビに入社すると、1984年10月には「FNNスーパータイム」の初代メインキャスターに抜擢されてニュースキャスターとして人気を博し、1988年3月には、20年以上勤めたフジテレビを退職しフリーに転向すると、「たけし・逸見の平成教育委員会」などの人気番組で司会を務めた、逸見政孝(いつみ まさたか)さん。
今回は、そんな逸見政孝さんの若い頃からの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「逸見政孝の生い立ちは?小中学時代は野球少年で高校時代は野球部のマネージャー!」からの続き
逸見政孝は23歳の時から輪島功一の世界タイトルマッチの実況など、数々のプロボクシング中継を担当していた
1968年4月、23歳の時、フジテレビにアナウンサーとして入局した逸見政孝さんは、当初は、スポーツアナウンサーとして活動し、輪島功一さんの世界タイトルマッチの実況をはじめとする数々のプロボクシング中継を担当すると、ボクサーより先に倒れるのではないかと思われる程の絶叫調の実況で頭角を現します。
ちなみに、1976年2月17日、輪島功一さんは、韓国の柳済斗さんと再戦して15回KO勝ちをし、再び王座に返り咲いているのですが、逸見政孝さんは、この試合の実況ができたことを、
アナウンサー人生で一番印象に残ったこと
と、語っています。
(輪島功一さんは、1975年6月7日、WBAタイトル初防衛戦で柳済斗さんと対戦して7回KO負けし、WBA王座から陥落しており、1976年2月17日の試合は柳済斗さんとの再戦でした)
逸見政孝の30代の頃
30歳の時にはワイドショー「3時のあなた」のサブ司会者に就任
そんな逸見政孝さんは、1975年、30歳の時には、ワイドショー「3時のあなた」で、司会の扇千景さんのアシスタントに就任するほか、
フジテレビが制作に関わっていたテレビドラマ「金メダルへのターン!」や、特撮テレビ映画「ミラーマン」にアナウンサー役で出演するなど、幅広い活動を行っています。
「3時のあなた」より。(左から)森光子さん、岩佐徹アナ、逸見政孝さん、須田哲夫アナ。
31歳~39歳の時には報道部で活躍
そんな逸見政孝さんは、1976年、31歳の時には、「FNNテレビ土曜・日曜夕刊」の週末のニュースを担当すると、これを皮切りに、
- 1978年(33歳)には、平日放送の「FNNニュースレポート6:30」のキャスター
- 1984年4月(39歳)には、「FNNニュースレポート6:00」のキャスター
- 1984年10月(39歳)には、(後番組)「FNNスーパータイム」の初代メインキャスター
と、報道部で活躍するようになるのですが、
「FNNニュースレポート6:30」に出演していた1980年頃には、TBSで同じ時間帯に放送されていた「テレポート6」を見て感銘を受けると、さっそく、アナウンス研究会の先輩でもあり、「テレポート6」のキャスターだった、TBSアナウンサーの山本文郎さんに直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのか尋ね、
山本文郎さんから、「できるだけ現場へ行くように」とのアドバイスをもらうと、その後は、「FNNニュースレポート6:30」の共演者である田丸美寿々アナウンサーとともに、様々な現場へ取材に出向いたそうで、
山口組三代目田岡一雄組長狙撃犯の死体が発見された際には、神戸の山口組本部に突撃取材を行ったこともあったそうです。
(取材範囲は原則的に関東地方に限られていたそうですが、時には、それ以外の地域へ赴くこともあったそうです)
「FNNスーパータイム」より。逸見政孝さんと幸田シャーミンさん。
ちなみに、フジテレビとWOWOWでスポーツ実況をし、当時の逸見政孝さんを知る岩佐徹さんは、
(逸見政孝さんは)「3時のあなた」で扇千景のアシスタントをしたときも一生懸命でしたが、田丸美寿々と組んだ「ニュース6:30(ロクサンマル)」での張り切り方は目を見張るものがありました。
視聴者からの投書には自費で作った写真入りのハガキでせっせと返事を書いていました。
(「FNNスーパータイム」で)コンビを組んでいたことがある幸田シャーミンとは大声をあげて言い合っていました。あの笑顔とは対照的にかなり気が短い男でした。
と、語っています。
逸見政孝の40代の頃
40歳の時に「夕やけニャンニャン」に出演し注目を集めていた
逸見政孝さんは、1985年、40歳の時には、この年の4月に開始した夕方5時からの生放送番組「夕やけニャンニャン」に設けられていた「FNNスーパータイム」(「夕やけニャンニャン」の後時間帯に放送されていました)の予告コーナーも担当するようになるのですが、
やがては、片岡鶴太郎さんやとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めるようになるほか、
逸見政孝さんの、「七三分け」に「黒縁メガネ」という、いかにも真面目そうな外見とは裏腹に、ひょうきんでギャグセンスが高いというギャップが若年層の視聴者に人気を博し、
番組開始から約1ヶ月後には、「逸見政孝さんのことを知りたい」という十代の視聴者からの投書が番組に舞い込むようになり、それに応えるかたちで別コーナーにもゲスト出演するようになるなど、逸見政孝さんの番組内での人気は過熱気味となります。
そんな中、逸見政孝さんは、ある時、片岡鶴太郎さんに、
プロマイドは出さないんですか?
と、逸見政孝さんのアイドル的人気にひっかけたギャグを振られているのですが、
なんと、翌日にはブロマイド発行元のマルベル堂から本当にオファーが来たそうで、フジテレビと逸見政孝さんは驚きながらもこのオファーを受けたそうで、史上初のアナウンサーのプロマイド製作が実現。
すると、(何の変哲もない中年男性の外見である)逸見政孝さんのプロマイドは瞬く間に大ヒット。
その後「夕やけニャンニャン」と「FNN スーパータイム」の視聴率が上がるにつれ、逸見政孝さんは人気が急上昇し、1年間で170社もの取材を受け、著書やレコードも立て続けに出すようになったのでした。
41歳の時にはフジテレビを代表する看板アナウンサーになっていた
そして、逸見政孝さんは、人気の高まりを受け、1986年、41歳の時には、映画「コミック雑誌なんかいらない!」に、アナウンサー役で出演するほか、バラエティ番組にも引っ張りだことなり、
「新春かくし芸大会」の司会を芳村真理さんとのコンビで担当するなど、名実共にフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立したのでした。
「新春かくし芸大会」より。逸見政孝さんと芳村真理さん。
43歳の時にフジテレビを退職していた
逸見政孝さんは、1987年、42歳の時には、勤続20年を迎え、管理職(アナウンス部副部長)に昇格しているのですが、このことにより、「FNNスーパータイム」以外の番組への出演機会が徐々に減少していったことから、
生涯、一アナウンサーでありたい
との思いが強くなり、同年11月、退職願を提出すると、
1988年3月末(43歳)をもって、フジテレビを退職し、フリーに転身しています。
43歳~46歳の時に「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」「夜も一生けんめい。」「たけし・逸見の平成教育委員会」で人気司会者としての地位を確立
すると、逸見政孝さんの快進撃はその後も続き、
- 1988年(43歳)の時には、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」
- 1990年(45歳)の時には、「夜も一生けんめい。」
- 1991年(46歳)の時には、「たけし・逸見の平成教育委員会」
などバラエティ番組の司会を担当すると、いずれも高視聴率を誇る人気番組となり、逸見政孝さんも、「いっつみい(It’s me)」の愛称で、視聴者から人気を博します。
「たけし・逸見の平成教育委員会」より。逸見政孝さんとビートたけしさん。
ちなみに、逸見政孝さんは、個性が全く異なるタモリさん、ビートたけしさん、明石家さんまさん(BIG3)を仕切ることができる唯一の司会者だったのですが、
逸見政孝さん自身も、「BIG3」との共演について、
BIG3の仕切り役だけは絶対誰にも譲らない
と、語っていたといいます。
47歳の時に東京世田谷区奥沢に大豪邸を建てていた
その後も、逸見政孝さんの仕事は順調で、1992年11月(47歳)の時には、世田谷区奥沢の131坪の土地に13億円のイギリス風の鉄筋レンガ造3階建て7LDKの大豪邸を建てたそうです。
(同時に、大阪で暮らしていた両親を呼び寄せ、旧宅に住まわせたそうです)
47歳の時に胃ガンと診断されていた
しかし、逸見政孝さんは、1993年1月18日、47歳の時には、みぞおちの辺りに痛みを感じたことから、前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)を受診したところ、胃ガンと診断されたそうで、同年1月25日には、病巣の切除手術を受けます。
そして、手術から1ヶ月後の2月25日に退院後は、翌日の2月26日から「夜も一生けんめい。」の収録で早くも仕事復帰すると、退院後も抗癌剤投薬などの治療を続けながら仕事を続けていたのですが・・・
前田外科病院への不信感もあり、同年9月3日、東京女子医科大学病院に転院すると、ガンの再発を宣告されたそうで、
9月6日午後3時に緊急記者会見を開くと、自ら進行胃ガン(スキルス胃ガン)であることを、初めて公の場で告白し、9月7日からはすべての仕事を休止して本格的な闘病生活に入り、9月16日には、13時間に及ぶ大手術を受けたのでした。
1993年9月6日午後3時に緊急記者会見を開き、進行胃ガンであることを告白した逸見政孝さん。
48歳の時に末期のスキルス胃ガンにより他界
その後は、順調に回復していると思われた逸見政孝さんですが・・・
容体が急変し、1993年12月25日、東京女子医科大学病院で、末期のスキルス胃ガン・再発転移によるガン性悪液質のため、48歳の若さで他界されたのでした。
「逸見政孝の死因はスキルス胃ガン!最後は壮絶な闘病生活を送っていた!」に続く
人気司会者としてバラエティ番組などで活躍し、テレビでは見ない日がないほど人気絶頂だった1993年、胃ガンと診断され、この年(1993年)の12月25日、スキルス(進行)胃ガンにより他界した、逸見政孝(いつみ まさたか)さ …