1977年、16歳の時、ロックバンド「LAZY」として、「Hey! I Love You!」でデビューするも、実質的にはアイドル活動だったことから不満を募らせ、19歳の時には、「ヘヴィ・メタル宣言」するも、この年、「LAZY」を解散すると、
その後は、ソロでアニメの主題歌やエンディングを歌唱するようになり、「CHA-LA HEAD-CHA-LA」が170万枚を超える大ヒットを記録し、「アニソン界のプリンス」と称されるようになった、影山ヒロノブ(かげやま ひろのぶ)さん。
今回は、そんな影山ヒロノブさんの若い頃(「LAZY」解散後のソロ活動以降)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】影山ヒロノブの若い頃は?LAZY(レイジー)時代の経歴を時系列まとめ!」からの続き
影山ヒロノブの20代の頃
20歳の時に「今日を生きよう」でソロデビュー
影山ヒロノブさんは、「LAZY」解散後、1981年10月には、徳間音楽工業(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)から「今日を生きよう」でソロデビューすると、それほど注目度は高くなかったものの、
「8時だョ!全員集合」に歌のゲストとして出場した際には、数少ないテレビ出演ということもあり、会場には大勢のファンが詰めかけたそうです。
(影山ヒロノブさんは、「8時だョ!全員集合」には、「LAZY」時代から出演しており、ソロになってからも、数回出演しています)
20歳~24歳の時に自分で作詞作曲を始めていた
ただ、影山ヒロノブさんは、ソロになったものの、詩を書いたり曲を作ることができず、自分一人で音楽を作り出す能力がなかったことから、自分のやりたい方向をスタッフに伝えられなかったそうです。
(スタッフが与えてくれる詞や曲に「う~ん…」と思いながらも、だからと言って、代わりに何を提案していいか分からないというジレンマに陥ったそうです)
そんな中、スタッフもファンも、
この人、何がやりたいのかわからない…
と、離れていったそうで、
影山ヒロノブさんは、
自分のやりたいことをやるには、自分でやり始めるしかない
と、痛感し、
レコードになるかどうかは別として、とにかく自分のライブのために曲を作り始めたのだそうです。
21歳の時に徳間音楽工業と事務所に契約を解除されていた
しかし、影山ヒロノブさんの人気は低迷し、コンサートの動員数もどんどん減り、1982年、21歳の時には、ついに、徳間音楽工業にも事務所にも契約を解消されてしまったそうです。
そんな中、山岸達治さん(現・音楽プロダクション「バースデーソング」の代表取締役)を紹介されて、山岸達治さんの事務所に所属し、楽器を詰め込んだワゴンで寝泊まりしながら、全国のライブハウスを巡る日々が始まったそうですが、
(山岸達治さんは、全国のライブハウスを影山ヒロノブさんのためにブッキングしてくれたそうですが、その代わり、ギャラはなかったそうです)
ライブがない日は建設現場で肉体労働のアルバイトをしていたそうで、
影山ヒロノブさんは、
それが21歳の頃ですから、LAZYを解散して1年ちょっとしか経ってない。ホント、ダメになるのはあっと言う間ですよ。
と、語っています。
(この時期がシンガーとして一番苦しい時代だったそうです)
21歳~24歳の時に年間120本~150本のライブをこなしていた
こうして、影山ヒロノブさんは、ひたすら自分のために曲を作っては歌い続ける日々を送ったそうで、年間120本~150本のライブをこなしたそうですが、
そのうち、声質も強く太く変わっていったそうで、(無名でお客さんもほとんどおらず、辛い日々ではあったものの)実りある時を過ごすことができたのだそうです。
24歳の時にスーパー戦隊シリーズ「電撃戦隊チェンジマン」の主題歌歌手に抜擢
そんなライブハウス巡りの日々の中、1985年、24歳の時、突然、日本コロムビアのディレクターから、事務所に、
お宅の影山くんに来年のスーパー戦隊の歌を歌ってもらえないか?
と、「電撃戦隊チェンジマン」の主題歌歌唱の依頼の電話があったそうで、
影山ヒロノブさんは、
音楽業界が自分に振り向いてくれたのは何年ぶりだろう…
と、とても嬉しかったそうです。
(そのディレクターによると、1980年代になって激しい曲調のアニメソングが増える中、「アニソンが歌えるロックシンガー」を探していたのだそうです)
ちなみに、「電撃戦隊チェンジマン」の作曲者は、「LAZY」を東京に呼んでくれたかまやつひろしさんと同じ、元「ザ・スパイダース」のメンバーの大野克夫さんだったそうで、影山ヒロノブさんはそこにも不思議な縁を感じたそうです。
27歳の時にアニメ「聖闘士星矢」の主題歌「聖闘士神話 ~ソルジャー・ドリーム~」が大ヒット
すると、そこからは、ほぼ、途切れることなく、特撮、アニメソング歌唱の仕事が舞い込み、1988年、27歳の時には、アニメ「聖闘士星矢」の主題歌「聖闘士神話 ~ソルジャー・ドリーム~」を歌唱すると、作品、主題歌とともに大ヒットを記録。
それまで、ライブハウス「Shibuya eggman」でマンスリーでやっていたライブのお客さんは、99%女性だったそうですが、「聖闘士神話 ~ソルジャー・ドリーム~」がテレビで流れ始めた頃から、どんどん男の子のファンが増え始め、あっという間に「Shibuya eggman」のキャパシティを超えるようになったのだそうです。
28歳の時にアニメ「ドラゴンボールZ」の主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」が1980年代最大のヒットを記録
さらに、1989年、28歳の時には、アニメ「ドラゴンボールZ」の主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」を歌唱すると、これは170万枚を売り上げる、1980年代最大のヒットとなり、
影山ヒロノブさんは、
88年に『聖闘士星矢』の「聖闘士神話~ソルジャー・ドリーム~」、翌89年に「CHA-LA HEAD-CHA-LA」と2年連続で『週刊少年ジャンプ』原作のアニメ(主題歌)を歌い、それが自分の人生を決定づけました。
「CHA-LA HEAD-CHA-LA」を歌ってからは、今日まで「この先どうなるんだろう?」って一切考えたことがない。JAM Projectまで地続きで、今もその延長線上にある感じなんです。
と、語っています。
(「CHA-LA HEAD-CHA-LA」の作詞者は、「LAZY」のデビューシングル「Hey! I Love You!」と同じ、森雪之丞さんだったそうで、影山ヒロノブさんはまたしても不思議な縁を感じたそうです)
影山ヒロノブの30代の頃
30歳の時に「鳥人戦隊ジェットマン」の主題歌でゴールドディスク大賞「アルバム賞学芸部門」を受賞
そんな影山ヒロノブさんは、1991年、30歳の時には、スーパー戦隊シリーズ「鳥人戦隊ジェットマン」の主題歌を歌唱すると、歌手としての知名度を一気に世間に知らしめ、ゴールドディスク大賞「アルバム賞学芸部門」を受賞しています。
また、同時期に発売したオリジナルシングル「好き好き好き」も40万枚を売り上げるヒットを記録しています。
32歳の時に「ドラゴンボールZ」の後期主題歌「WE GOTTA POWER」、エンディング「僕達は天使だった」も歌唱
そして、影山ヒロノブさんは、1993年、32歳の時には、「ドラゴンボールZ」の後期主題歌「WE GOTTA POWER」、エンディング「僕達は天使だった」も歌唱し、人気を博します。
39歳の時にアニメソング歌手グループ「JAM Project」を結成
また、影山ヒロノブさんは、2000年、39歳の時には、水木一郎さん、松本梨香さん、さかもとえいぞうさん、遠藤正明さんとともに、アニメソング歌手グループ「JAM Project(ジャムプロジェクト)」を結成するほか、
自身のライフワークとして、アコースティックスタイルでのライブを(月間2本をノルマとして)全国各地で開催しています。
(「JAM Project」の現在のメンバーは、遠藤正明さん、きただにひろしさん、奥井雅美さん、福山芳樹さん、ヒカルド・クルーズさん(不定期参加)です)
影山ヒロノブの40代の頃
42歳の時にブラジルでブレイクしていた
影山ヒロノブさんは、2003年、42歳の時には、ブラジルから公演依頼の1通のメールが届いたそうで、ギャラは出ないような雰囲気も、おもしろそうだと思い、軽い気持ちで行くことにしたそうですが、
サンパウロの空港に到着すると、早朝にもかかわらず、人だかりができ、歓声が上がっていたことから、
一緒の便でどっかのサッカーチームでも帰国したのかな?
と、思っていると、
実は、影山ヒロノブさんたちを迎えるアニメファンが集まっていたそうで、影山ヒロノブさんは、そのことに、驚き、とても感動したそうです。
また、ブラジルでは、5000人が収容できるコンサートホールは満員で、実際、ライブを始めると、曲のイントロが流れただけで、ワールドカップでブラジルが優勝した時のような、コンサートホールが揺れるくらいの大歓声が上がったそうで、
影山ヒロノブさんは、
この頃はまだ、アニソン・シンガーが海外って歌うってこともほとんどなかったし、向こうの運営も素人同然だったけど、めちゃくちゃ楽しかったですね。珍道中もいいとこでしたけど(笑)。
ただ、僕たちの知らない海外にも、こんなにアニソンを熱狂的に支持してくれる人がいるということを思い知りました。
と、語っています。
42歳から海外公演を敢行
これをきっかけに、影山ヒロノブさんは、海外での公演も積極的に行うようになったそうで、
(毎年世界各地5カ国以上から「ANISON」イベントのオファーを受けるそうです)
2008年には、ついに「JAM Project」を率いて日本のアーティストとしては数少ない「ワールドツアー」(世界8カ国10都市)を敢行しています。
(これまで訪問した国は、アジア、北中南米、ヨーロッパなど12カ国にもなるそうです)
影山ヒロノブの50代(現在)
そんな影山ヒロノブさんは、2018年2月14日、57歳の時には、コロムビアでの足跡を記録した、「影山ヒロノブBEST カゲちゃんパック~君と僕の大行進~」と、ランティスからの「誰がカバーやねんアニソンショー」を同日リリースするなど、現在も精力的に音楽活動をしています。
(影山ヒロノブさんは、2000年に、「LAZY」のメンバーだった井上俊次さんが設立したレコード会社「ランティス」に移籍しています)
「影山ヒロノブの妻は?子供は娘が2人!長女は景山梨彩!次女は景山菜奈!」に続く
1977年、バンド「LAZY」のヴォーカルとしてデビューすると、「LAZY」解散後の1981年には、ソロシンガーとして活動を開始し、1985年には、スーパー戦隊シリーズ「電撃戦隊チェンジマン」の主題歌でアニメ・特撮ソング …