1975年、双子の兄・ピーコさんとともに、「おすぎとピーコ」でタレントデビューし、軽妙なトークで人気を博すと、以降、タレント活動のかたわら、映画評論家としても活動した、おすぎさん。
そんなおすぎさんは、高校卒業後、様々な職を経て、23歳の時、「歌舞伎座テレビ室」で働き始めると、すぐに、役者の間で評判になったといいます。
今回は、おすぎさんの、生い立ち(幼少期)から「歌舞伎座テレビ室」時代をご紹介します。
おすぎのプロフィールは?本名は?芸名の由来は?
おすぎさんは、1945年1月18日生まれ、
神奈川県横浜市保土ケ谷区の出身、
血液型はA型、
学歴は、
横浜市立桜丘高等学校
⇒阿佐ヶ谷美術専門学校卒業
ちなみに、本名は「杉浦孝昭」(すぎうら たかあき)で、芸名の「おすぎ」は本名の「杉浦」から名付けられたそうです。
おすぎは幼い頃は母親に溺愛されて育てられていた
おすぎさんは、鉄工場を営むお父さんのもと、6人兄弟姉妹(兄1人姉3人と双子の兄のピーコさん)の三男として誕生すると、末っ子だったことから、両親(特に母親)には、とても甘やかされて育てられたそうで、
兄のピーコさんによると、お母さんは、おすぎさんにべったりだったそうです。
ただ、おすぎさんは、少し変わったところがあったそうなので、お母さんはそんなおすぎさんを心配してのことだったのかもしれません。
ちなみに、おすぎさんは、ピーコさんより5分後に生まれただけだったのですが、明治生まれの両親が兄と弟の区別をはっきりさせたかったことから、完全に「弟」扱いされていたそうです。
おすぎは幼い頃は変わった子供だった
そんなおすぎさんは、幼い頃は、変わった子供で、強くもないのに、いじめっ子に向かって「ばかやろう!」などと悪態をつきながら家の中に逃げ込み、家の中に入った後もまだ吠えていたそうです。
おすぎは幼い頃から陽気で芸達者な子供だった
ただ、おすぎさんは、陽気で社交的な性格だったため、友達を作ることが上手だったほか、
幼い頃、お祭りで神楽(かぐら)を見ると、見よう見まねで踊るなど、見たものをそのままマネすることも上手だったそうで、学芸会では、いつも学年の主役に選ばれるなど、芸達者な子供でもあったそうです。
おすぎは高校卒業後は松下電器系の松下興産(倉庫業)に就職するも松下幸之助が嘘をついたと恨み退職していた
おすぎさんは、高校卒業後は、大学進学を希望していたそうですが、お父さんが病気になったため、進学をあきらめ、松下電器系の松下興産(倉庫業)という会社に就職したそうです。
ただ、当初は、夜間学校に入れてもらえるという話だったそうですが、仕事が倉庫業だったため、夜中にも荷物の引き取りがあり、ずっと待機していなければならず、学校に行く暇が全然なかったそうで、
(倉庫では、夏なら夏向けの製品が、冬なら冬向けの製品がドバッと来て、常に出たり入ったりを繰り返していたそうです)
おすぎさんは、怒り狂い、
松下幸之助が作った会社だからって思って入ったのに夜学に行かせてくれない!約束と違う!松下幸之助は嘘をついた!
言ってることと実際にやっていることが違う
と、ものすごく松下幸之助さんを恨んでいたといいます
そして、おすぎさんは、毎日、会社から帰ってきては泣いてばかりいたそうで、ほどなくして、松下興産を退職したのだそうです。
おすぎは10代の頃、松下興産を退職して東京デザイナー学院に通い始めるもすぐに辞めていた
こうして、松下興産を退職したおすぎさん(10代)は、東京デザイナー学院というデザイン関係の専門学校に通い始めたそうですが、
授業は、
今日はみんなでネオンのデザインを見に行きましょう
と、夜の街に出かけるようなカリキュラムだったそうで、
おすぎさんは、
この学校に1年もいたらダメだ。私はここにいても何にも勉強にならない
と、思い、すぐに学校を変えたそうで、
今度は、芸大の先生たちが教えに来てくれるという、阿佐ヶ谷美術専門学校に入り直したのだそうです。
おすぎは10代の頃、阿佐ヶ谷美術専門学校卒業後はタイポグラファーとして働いていた
そして、阿佐ヶ谷美術専門学校に入ったおすぎさんは、当時、新しい仕事として注目されていた、タイポグラファー(書体のデザイナー)になろうと、タイポグラファー養成コースを取り、一生懸命勉強したそうで、
阿佐ヶ谷美術専門学校を卒業後は、「協同広告」という会社に入社し、タイポグラファーとして働き始めたのだそうです。
(人手が足りないという理由で、コピーライターもやっていたそうです)
おすぎは23歳の時に「歌舞伎座テレビ室」に就職すると、面倒見が良く役者の間ですぐ有名になっていた
ただ、おすぎさんは、この「協同広告」も早々に辞め、23歳の頃、今度は銀座にあった歌舞伎座の系列の「歌舞伎座テレビ室」というテレビ番組のプロダクションに就職したそうです。
ちなみに、ここでの仕事は、「テレビ映画の制作進行補」、つまり、お茶を入れたりする雑用だったそうですが、おすぎさんは、役者さんが寒いといけないからと、炭をおこしてあげるなど、面倒見が良かったそうで、
役者の間で、
歌舞伎座テレビ室には変な子がいる。変な子なんだけど、役者にすごく気を使ってくれるスタッフだから、あそこでは気持ちよく仕事ができるなぁ
などと言われ、すぐ評判になったのだそうです。
(おすぎさんは仕事のため、毎朝4時ぐらに家を出ていたそうです)
「【画像】おすぎの若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1975年、双子の兄・ピーコさんとコンビを組み、「おすぎとピーコ」として本格的に芸能界デビューすると、軽妙なトークがウケてたちまちブレイクするも、人気絶頂の裏で兄弟の仲は深刻な亀裂が生じ、1982年にコンビとしての活動を …