1954年、早稲田大学から巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、1年目から遊撃手のレギュラーとなり、新人王とベストナインに輝いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さん。
そんな広岡達朗さんは、お父さんの影響で、幼い頃から軍人に憧れていたそうで、中学時代には、海軍兵学校に入ることを夢見て学校ではトップを目指し、勉強だけでなくトレーニングに励む日々を送っていたそうですが、
太平洋戦争で日本が敗戦を迎えたことで、バレーボールかテニスをしようと思っていたところ、野球部に勧誘されて野球部に入部したといいます。
今回は、広岡達朗さんの、生い立ち(幼少期)から中学時代をご紹介します。
広岡達朗のプロフィール
広岡達朗さんは、1932年2月9日生まれ、
広島県呉市の出身、
身長180センチ、
体重70キロ、
学歴は、
五番町小学校(現・呉市立呉中央小学校(呉中央学園))
⇒呉第一中学校(1948年、学制改革で呉竹高校⇒現・広島県立呉三津田高校)
⇒早稲田大学教育学部社会科卒業
ちなみに、「広岡達朗」は本名で、愛称は「ヒロ(さん)」です。
広岡達朗が幼い頃は両親や兄姉の愛情を一心に受けて育っていた
広岡達朗さんは、大日本帝国海軍少佐で駆逐艦の機関長だったお父さん・誠一さんとお母さんのこみゑさんのもと、6人兄弟(兄5人、姉1人)の末っ子として誕生すると、
お父さんは厳格だったそうですが、お母さんは優しかったそうで、末っ子の広岡達朗さんは、甘えん坊で、小学6年生まで、お母さんと一緒に寝ていたそうです。
また、お兄さんやお姉さんからもかわいがられ、両親や兄姉の愛情を一心に受けてすくすくと育ったそうです。
1954年、早稲田大学から巨人に入団すると、1年目から遊撃手のレギュラーとなって、新人王とベストナインに選ばれ、引退後は、監督としても、1978年には、ヤクルトで初のリーグ優勝&日本一、1982~1985年には、西武で3 …
広岡達朗が幼い頃は軍人に憧れていた
また、広岡達朗さんは、幼い頃、道で水兵のグループとすれ違った際、上官であるお父さんに対し敬礼している姿を見て、誇らしく思い、自然と軍人に憧れるようになったそうです。
広岡達朗の中学時代は海軍兵学校に憧れ勉強とトレーニングに励んでいた
そんな広岡達朗さんは、1944年、13歳の時には、五番町小学校(現・呉中央学園)を卒業し、呉第一中学校に進学するのですが、
江田島の海軍兵学校に入ることを夢見て、学校ではトップを目指し、勉強だけでなく、トレーニングに励んだそうです。
広岡達朗は14歳の時に終戦し軍人になる夢が潰えていた
しかし、1945年、14歳の時には、広島県呉市の街は戦争一色となると、春から夏にかけて米軍の大規模空襲を受け、さらに、8月6日には原爆投下を受け、
その数日後には、太平洋戦争で日本が敗戦したことを知り、広岡達朗さんが軍人になる夢は潰えたのでした。
幼い頃、道で水兵のグループとすれ違った際、上官であるお父さんに一斉に敬礼している姿を見て誇らしく思い、軍人に憧れるようになったという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、中学時代は、海軍兵学校に入ることを夢見て、トレー …
広岡達朗は14歳の時はヤジが嫌いで野球をやろうとは思っていなかった
そこで、広岡達朗さんは、バレーボールか、お父さんから「紳士のスポーツ」と聞かされていたテニスをしようと思っていたそうですが、野球部に勧誘され、結局は野球部に入部したそうです。
(広岡達朗さんは、野球はヤジが嫌いでやろうとは思っていなかったそうですが、物が全くない時代、すぐ上のお兄さんの野球のグラブでお父さんとキャッチボールをしているところを、年上の野球部員に見られ、用具目当てに野球部に勧誘されたのだそうです)
海軍で駆逐艦の機関長だったお父さんが水兵たちから一斉に敬礼される姿に憧れ、海軍兵学校に行くべく、勉強と共に運動にも励んでいたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、終戦したことから、バレーボールか、お父さんから「紳 …
広岡達朗の中学時代の野球部は弱小だった
こうして、野球部に入部した広岡達朗さんですが、野球部は弱小で、部費は少なく、練習でボールが駄目になると、みんなで縫って直したそうです。
ただ、縫っても直らないほど古くなると練習は休みとなり、その間、各自がバイトして100円ずつ持ってこなければならなかったそうで、広岡達朗さんは、「神谷せっけん工場」という所で力仕事をしてアルバイト代を稼いだのだそうです。
「【画像】広岡達朗の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1954年にスカウトされて巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、入団1年目にいきなり、打率3割1分4厘、15本塁打という好成績を残して新人王に輝き、その後も、意外性のある打棒と堅実で華麗な守備が高く評価された、広岡達朗( …