テレビ黎明期の1950年代からテレビ女優第一号としてデビューすると、早口のトークや個性の強いキャラクターで国民的な人気を博した、黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さん。

今回は、そんな黒柳徹子さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

黒柳徹子

「黒柳徹子の生い立ちは?小学校途中退学もトモエ学園で居場所を見つけていた!」からの続き

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黒柳徹子は10代の時に「NHK放送劇団」に合格しテレビ女優の第一号としてデビュー

「NHK放送劇団」の試験に合格

早速「NHK放送劇団」の俳優募集に応募した黒柳徹子さんは、試験を受けると、第一次試験の「演技」テスト、第二次試験の「筆記」テスト、第三次試験の「パントマイム」テスト、第四次試験の「歌」テストと、次々とクリアしていったそうで、

最後の面接では失言を連発してしまったそうですが、なんと、6000人もの応募者の中から、見事、合格を果たしたそうです。

19歳の時にテレビ女優の第一号としてデビューするも最初の1年間は役を降ろされてばかりだった

こうして、黒柳徹子さんは、1953年1月(19歳)、NHK放送劇団の一員となり、テレビ女優の第一号としてデビューすると、ラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学んだそうですが・・・

最初の1年間は役を降ろされてばかりだったそうです。

黒柳徹子の20代の頃はNHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」で一躍人気を博し「NHK紅白歌合戦」の紅組の司会者に起用されるも過労で全レギュラーを降板していた

21歳の時にNHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」で一躍人気を博していた

それでも、黒柳徹子さんは、1954年、21歳の時には、NHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」のオーディション募集に応募し、見事合格すると、三男のトン坊役で、一躍、人気を博します。

「ヤン坊ニン坊トン坊」
「ヤン坊ニン坊トン坊」より。(左から)新村礼子さん、横山道代さん、黒柳徹子さん、里見京子さん。

(この「ヤン坊ニン坊トン坊」は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供(男の子)の声を演じた番組だったそうです)

25歳の時には「NHK三人娘」として売り出されると「NHK紅白歌合戦」の紅組の司会者にも起用されていた

そして、1958年、25歳の時には、「NHK三人娘」として売り出されると、順調に仕事が増えていき、「第9回 NHK紅白歌合戦」の紅組の司会者に起用されています。

紅白歌合戦で司会を務める黒柳徹子
「第9回 NHK紅白歌合戦」の司会を務める黒柳徹子さん。

20代後半の頃は過労で入院しレギュラー番組を全て降板していた

そんな黒柳徹子さんは、20代後半の頃には、テレビとラジオのレギュラーを週に10本抱えるなど多忙を極めるようになったそうで、

ついには、過労から体調を崩すと、1ヶ月の入院を余儀なくされ、全てのレギュラー番組を降板したのだそうです。

黒柳徹子
20代後半頃の黒柳徹子さん。

20代後半の頃は「文学座」付属の研究所で演技を学んでいた

その後、黒柳徹子さんは、無事に退院したそうですが、退院後もタイトなスケジュールは変わらず、多忙な日々を送っていたそうで、

やがて、もっと演技がうまくなりたいと思い始め、慕っていた杉村春子さんに「文学座」への入団を相談し、「文学座」付属研究所で演技の勉強を始めると、その頃から、テレビの仕事と並行して、舞台の仕事も増やしていったのだそうです。

黒柳徹子の30代の頃はニューヨークに演技留学していた

37歳の時にニューヨークへの留学を決意していた

また、黒柳徹子さんは、1970年、37歳の時には、東宝のミュージカル「スカーレット」(帝国劇場)で、ヒロインのスカーレット・オハラの妹、スエレン役を演じていたのですが、

ブロードウェイのスタッフとともに仕事をして親しくなり、やがて、作曲家のハロルド・ロームさんの夫人・フローレンスさんから

面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!

と、誘われたそうで、

当時、黒柳徹子さんは、生き方に迷っていたこともあり、もっと演技の勉強をしたいとニューヨークへの留学を決意したのだそうです。

黒柳徹子

38歳の時にニューヨークに留学し「メアリーターサイ演劇学校」で演技を学んでいた

こうして、黒柳徹子さんは、1971年9月、38歳の時、日本を出発すると、ニューヨークでは、ハロルド・ローム夫妻が身元引受人になってくれたほか、住まいとして、セントラルパークの西隣になるストゥーディオまで用意してくれたそうで、

やがて、黒柳徹子さんは、そんな、ローム夫人・フローレンスさんのことを、「ニューヨークのお母さん」と呼ぶようになったそうです。

また、黒柳徹子さんは、舞台「スカーレット」の演出家・ジョー・レイトンさんの妻で元女優のエブリンさんの紹介で、スタニスラフスキー・システムに基づいてプロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」に通い、演技を学んだそうで、やがて、女優を続けていくことへの迷いも吹っ切れていったのだそうです。

ニューヨークに留学中の黒柳徹子
ニューヨークに留学中の黒柳徹子さん。

38歳の時にトレードマークとなる「たまねぎ頭」を開発していた

ちなみに、黒柳徹子さんのトレードマークである「たまねぎ頭」は、このニューヨークの留学時代に、黒柳徹子さんが

着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい!

との思いから、誕生したものだったといいます。

黒柳徹子

黒柳徹子は50代の頃から「ユニセフ」の親善大使を務めている

また、黒柳徹子さんは、1984年、51歳の時から「ユニセフ」(UNICEF 国際連合傘下の国際連合児童基金)の親善大使を務めているのですが、

実は、緒方貞子さん(女性国連公使第1号)の紹介により、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントさんが、黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」を読んだことがきっかけで、黒柳徹子さんが親善大使に就任することになったのだそうです。

以降、黒柳徹子さんは、毎年、アフリカ、アジアなど発展途上国を欠かさず訪問しているのですが、これらの視察の様子は、日本で90分間のドキュメンタリー番組として2本放送されるほか、「徹子の部屋」、「ニュースステーション」をはじめとする報道番組、新聞、雑誌など、様々なメディアで広く伝えられており、

そのおかげで、アフガニスタンやソマリアにおける子供と母親を支援するための資金提供を呼びかけることができたのだそうです。

(黒柳徹子さんは、パンダの保護活動にも熱心に取り組んでいます)

黒柳徹子

黒柳徹子は65歳の時からスクワットを毎日50回している

ちなみに、黒柳徹子さんは、1998年、65歳の時から、プロレスラーのジャイアント馬場さんのアドバイスにより、毎晩、寝る前にスクワットを50回しているといいます。

黒柳徹子は70歳の時から「顔筋マッサージ」を実践している

また、黒柳徹子さんは、70歳の時から、美容のために、「顔筋マッサージ」を実践しているといいます。

黒柳徹子は83歳の時に食べ過ぎで激太りしていた

そんな黒柳徹子さんですが、2016年、83歳の時には、激太りした姿が大きな話題となりました。

黒柳徹子さんによると、お肉が大好きで週に数回は焼肉店を訪れ、男の人よりも食べるとのことで、逆に健康の証かもしれません。

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黒柳徹子は80代後半には「滑舌の悪さ」や「車椅子姿」が話題に

ただ、黒柳徹子さんは、80代後半頃から、「滑舌の悪さ」や「車椅子姿」などが話題となっています。

黒柳徹子は現在(90代)も「徹子の部屋」に出演中

それでも、黒柳徹子さんは、2024年、91歳の現在も、ライフワークとなっている冠番組「徹子の部屋」に出演しており、

収録中、呼吸も精一杯で、息も絶え絶えな様子が話題となるも、

黒柳徹子さん自身は、

死ぬまで続ける

と、まだまだ気力は十分なようです。

黒柳徹子
90歳現在の黒柳徹子さん。

お読みいただきありがとうございました

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