1958年には、”ロカビリー3人男”として、日本にロカビリーブームを巻き起こすも、ロカビリーに早々に見切りをつけて、ジャズに転身すると、その後は、タレント、俳優、音楽プロデューサーとして、マルチな才能を発揮している、ミッキー・カーチス(mickey curtis)さん。

今回は、そんなミッキー・カーチスさんの若い頃から現在までの活躍や経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。

ミッキー・カーチス

「ミッキーカーチスの生い立ちは?幼少期はハーフを理由にイジメられていた!」からの続き

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ミッキー・カーチスが10代の頃はロカビリー歌手として人気を博すほか映画「結婚のすべて」で俳優デビューもしていた

19歳の時にロカビリー歌手として「第1回日劇ウェスタンカーニバル」で人気を博していた

ミッキー・カーチスさんは、1958年、19歳の時、ロカビリー歌手として「第1回日劇ウェスタンカーニバル」(日本劇場で開催されていた音楽フェスティバル)に出演すると、平尾昌晃さん、山下敬二郎さんと共に、”ロカビリー3人男”として人気を博しています。

「第1回日劇ウェスタンカーニバル」
「第1回日劇ウェスタンカーニバル」より。(左から)平尾昌晃さん。ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さん。

19歳の時に「クレージー・ウェスト」として「月影のなぎさ/小熊のテデー」でレコードデビュー

また、ミッキー・カーチスさんは、同年には、「ミッキー・カーチスとクレージー・ウェスト」として、「月影のなぎさ/小熊のテデー」でSP版レコードデビューを果たしています。

(同年3月には、「森の小径」「好きだった」を含むEP版も発売しています)

ミッキー・カーチス
「月影のなぎさ/小熊のテデー」より。

19歳の時にジャズに傾倒したバンド「アイヴィ・ファイブ」を結成していた

そんなミッキー・カーチスさんは、1958年5月(19歳)には、ティーンエイジャー相手のロカビリーはそう長くは続かいないと思ったそうで、

早くも、ロカビリーに見切りをつけ、ジャズ色を増したバンド「アイヴィ・ファイブ」を結成すると、同年7月には、「SATURDAY NIGHT WITH MICKEY(土曜はミッキーと)」をリリースしています。

「アイヴィ・ファイブ」
「アイヴィ・ファイブ」

ちなみに、ミッキー・カーチスさんは、この作品について、

これはロック史に残る作品で、日本で最初に出されたロックというか、音楽のライブアルバムなんだね。6月の銀座ACBでのステージを録音したもので、3人男の競作となったエディ・コクランの「バルコニーに坐って」も収録されている。

ビートルズでもお馴染みの、リトル・リチャードの「のっぽのサリー」とか、僕が大好きだった「愛しておくれ」も入っているね。

と、語っています。

19歳の時に岡本喜八監督作品「結婚のすべて」で映画界にも進出していた

そんなミッキー・カーチスさんは、歌手として活躍するかたわら、1958年(19歳)には、岡本喜八監督に誘われて、映画「結婚のすべて」で俳優デビューも果たしており、映画界にも進出しています。

「結婚のすべて」
「結婚のすべて」より。

ミッキー・カーチスが20代の時には「ミッキー・カーチス&サムライ」としてヨーロッパで人気を博していた

21歳の時にテレビ歌番組「ザ・ヒットパレード」の司会

また、ミッキー・カーチスさんは、1959年(20歳)の時には、6月17日に放送が開始したテレビ歌番組「ザ・ヒットパレード」の司会や、音楽バラエティ番組に出演するなど、タレントとしても人気を博します。

「ザ・ヒットパレード」
「ザ・ヒットパレード」より。ミッキー・カーチスさんと「ザ・ピーナッツ」。

22歳の時に雪村いづみとのデュエット曲「恋の片道切符」で紅白歌合戦に出場

そして、1960年、22歳の時には、雪村いづみさんとデュエットした「恋の片道切符」をリリースすると、

この年の暮れには、「第11回NHK紅白歌合戦」に出演を果たすなど、その人気を不動のものにしたのでした。

「恋の片道切符」
「恋の片道切符」より。

(この曲は、アメリカのポップス歌手・ニール・セダカの1959年の大ヒットナンバーのカバーだそうです)

23歳の時に本格的なジャズバンド「シティクローズ」を結成

そんなミッキー・カーチスさんは、1961年6月、23歳の時には、「アイヴィ・ファイブ」を下地に、さらにバンドを再編成し、本格的なジャズ志向バンド「シティクローズ」を結成すると、

「ミュージカル・ヒット・パレード」「今宵浜辺で」「魅惑のアコーディオン」「リズムで踊ろう」などのアルバムをリリースしています。

「シティクローズ」
「シティクローズ」の「ミュージカル・ヒット・パレード」

29歳の時には「ミッキー・カーチス&サムライ」がヨーロッパで人気を博していた

さらに、1966年、28歳の時には、ラウンジ・ジャズに特化したバンド「ヴァンガーズ」を結成し、ホテルのラウンジやナイトクラブをメインに活動するようになると、

「ヒルトン・ホテル東京」を拠点としていたことから、香港やタイのバンコクのヒルトン・ホテルでもハウス・バンドとして出演するようになり、バンコクに1年ほど滞在して演奏活動をしていたそうです。

そんな中、フランス人プロモーターからオファーを受けると、一旦、バンコクから帰国した後、バンド名を日本のグループとひと目見てわかるように、「ミッキー・カーチス&サムライ」と改名し、1967年秋(29歳)、ヨーロッパに渡ると、ほかにはない、日本独特のテイストが受け、たちまち人気を博したのでした。

「ミッキー・カーチス&サムライ」
「ミッキー・カーチス&サムライ」。中央がミッキー・カーチスさん。

ミッキー・カーチスが30代の時には矢沢永吉を見出していた

33歳の時には「ミッキーカーチス&サムライ」を解散

そんなミッキー・カーチスさんは、1970年、32歳の時、帰国すると、翌年の1971年には、アルバム「河童」をリリースするなど、音楽活動を続けていたのですが、

ヨーロッパに比べ、あまりにも遅れていた日本のロックシーンの中での活動は、次第に行き詰まるようになったそうで、1971年、「ミッキーカーチス&サムライ」は解散したのでした。

34歳の時に無名の新人だった矢沢永吉を見出していた

その後、ミッキー・カーチスさんは、日本初のフリーランスの音楽プロデューサーとして、数多くのミュージシャンを手がけるようになっていくと、

1972年、34歳の時には、まだ、無名の新人だった、矢沢永吉さんを見出しています。

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ミッキー・カーチスの40代~現在(80代)

そんなミッキー・カーチスさんは、1980年代(40代)には、音楽の枠にとらわれず、なんと、「ミッキー亭カーチス」として、落語家としても活動しています。

また、俳優としても、テレビドラマや映画に多数出演しており、2024年、85歳の時には、主演と音楽プロデューサーを務めた短編映画「運命屋」が、「ニューヨーク・インディペンデント・シネマアワード(New York Independent Cinema Awards)」で最優秀俳優賞を受賞すると、

傘寿(80歳)を超えての受賞に、

85になってニューヨークで主演男優賞なんて本当にうれしい!!人生何が起こるか分からない(笑)だから毎日頑張らないと!!絵で毎日新聞社賞!役者として最優秀俳優賞!ありがたいねぇ

と、喜びのコメントを寄せています。

「運命屋」
「運命屋」より。

また、ミッキー・カーチスさんは、タイのプーケットで7年過ごした後、2022年、84歳の時には、北海道に(落語の)お弟子さんがいるということで、北海道名寄市に移住しているそうで、

2024年、86歳の現在は、名寄市でキツネやシカに囲まれて自由気ままな生活を楽しんでいるといいます。

(画家としても「ミッキー・カーチス animal world展」を開催するなど、精力的に活動しています)

お読みいただきありがとうございました

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