西欧的な二元論から脱し、東洋的な調和や共生を建築の世界に生かそうと考え、「共生の思想」を生涯の建築哲学とした、黒川紀章(くろかわ きしょう)さんですが、プライベートでは、2度の結婚と1度の離婚をしています。
今回は、そんな黒川紀章さんの最初の妻、再婚相手の若尾文子さんとの馴れ初め、結婚後の関係についてご紹介します。
黒川紀章の最初の妻は?
黒川紀章さんは、いつ頃かは不明ですが、結婚すると、奥さんとの間に、子供が誕生していたようですが、1983年頃に離婚しています。
黒川紀章と女優・若尾文子との馴れ初めは?
というのも、黒川紀章さんは、1976年、トークドキュメンタリー番組「すばらしき仲間」での対談で、女優の若尾文子さんと知り合うと、この時、若尾文子さんの印象がとても良く、その日のうちに、黒川紀章さんは、誰かから若尾文子さんの住所を聞き出すと、若尾文子さんの自宅にプレゼントの絵画を持って訪問。
この猛プッシュにより、交際に発展すると、黒川紀章さんと若尾文子さんは、ほどなくして、一緒に暮らし始めるのですが、黒川紀章さんは、この時、妻子がいたため、すぐに、結婚とはなりませんでした。
そこで、黒川紀章さんは、奥さんに離婚してほしい旨を伝えるのですが、奥さんは、娘が20歳になるまではと、離婚に応じなかったため、若尾文子さんとはすぐに入籍することはできず、同棲生活が続いたそうです。
(ただ、黒川紀章さんには、娘さんの2つ年下の息子さんもおられます)
そして、それから、7年後、娘が20歳になった時点で離婚が成立すると、黒川紀章さんは、若尾文子さんと結婚したのでした。
ちなみに、プロポーズの言葉は、
きみはバロックの美のようだ(目などに左右均等の美があるという意味)
だったそうです。
黒川紀章と若尾文子は結婚後は別居生活も夫婦仲は良好だった
結婚後は、海外を飛び回る黒川紀章さんに、若尾文子さんが同行するため、テレビドラマや映画をセーブし、舞台を中心に活動していたのですが、その後、黒川紀章さんは、女優として国の宝である若尾文子さんを自分が独占してはいけないと考え、2000年代以降は、黒川紀章さんは近くのホテルで、若尾文子さんはホテルで暮らすなど、別居生活をしていたそうです。
ただ、携帯電話で毎日連絡を取り合ったり、若尾文子さんが毎朝手作りのお弁当をホテルに届けてくれるなど、お互い、気遣い合い、結婚後の夫婦仲は良好だったようです。
黒川紀章は若尾文子と夫婦で参院選に出馬していた
また、黒川紀章さんは、2007年7月29日、若尾文子さんと夫婦で参院選に出馬しているのですが、黒川紀章さんに依頼された若尾文子さんは、当初、「死んでもイヤ」と、出馬を拒否していたのですが、最終的には、黒川紀章さんの熱意に押され、若尾文子さんが折れる形で、出馬したのだそうです。
ちなみに、若尾文子さんは、出馬した際には、慣れない演説もこなし、演説の際には、黒川紀章さんと手を繋いでいたそうです。
黒川紀章は若尾文子に自身がすい臓ガンであることを告げていなかった
そんな黒川紀章さんは、2005年頃、すい臓ガンが判明すると、投薬治療や手術をするなど、八方手を尽くすも、一進一退を繰り返していたそうで、2007年10月9日、再び入院すると、若尾文子さんと、前妻との娘さんが交代で看病していたのですが、同年10月12日に他界されたのでした。
ちなみに、若尾文子さんによると、若尾文子さんが黒川紀章さんがガンであることを知らされたのは、なんと、亡くなる前日の最後の会話の時だったそうで、
若尾文子さんは、
(黒川紀章さんは死を覚悟していたのか、という問いに対し)そうみたいですね。でも、私には何も言いませんでした。私は本当に最後の最後までそれ(ガン)を知らなかった。最後の会話で初めて聞いたんですから…。まあ、がんかも? と、どこかで思っていても、言われない限りは、信じたくないし、怖くて詮索もしたくないじゃないですか。きっと私が冷たいのね。普通だったら、無理やりにでも聞くんでしょうが…。言わなかったのは、言うと私がガタガタになると思ったんでしょう。私の仕事のことも大事に思ってくれてましたし。最後の会話をして、亡くなったのは、その明くる朝です。
と、語っています。
また、最後の会話の時に、若尾文子さんが、
私、あまりいい奥さんじゃなかった
と、言うと、
黒川紀章さんは、
そんなこと(ない)。本当に好きだったんだから
と、言ってくれたそうで、黒川紀章さんが、どれほど若尾文子さんを大切にしていたかが分かります。