「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」「古都」など、日本人ならではの感性と鋭い洞察力で、情緒豊かな世界を描いた作品を次々と発表し、日本のみならず、世界的にも高い評価を受けている、川端康成(かわばた やすなり)さん。
そんな川端康成さんは、幼い頃は予知能力があり、神童と呼ばれていたほか、小学校時代から成績優秀で、特に作文で才能を発揮していたそうですが、
幼い頃に両親が相次いで他界すると、育ててくれた祖父母もやがて他界し、15歳の時には孤児となってしまったそうで、そんな境遇の寂しさを埋めるため、文学に没頭し、中学2年生の時に作家を志したといいます。
今回は、川端康成さんの、生い立ち(幼少期から中学生時代まで)をご紹介します。
川端康成のプロフィール
川端康成さんは、1899年6月14日生まれ、
(川端康成さん自身は、6月11日生れだと最後まで信じていたそうです)
大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)の出身、
大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・茨木市宿久庄1丁目11-25)育ち、
学歴は、
尋常小学校
⇒大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)
⇒第一高等学校文科第一部乙類(英文科)
⇒東京帝国大学国文学科卒業
ちなみに、「川端康成」は本名です。
川端康成は幼い頃に父親と母親が相次いで結核で他界していた
川端康成さんは、医師のお父さんの川端栄吉さんとお母さんのゲンさんのもと2人姉弟の長男として、誕生したそうですが、
1901年1月、川端康成さんが1歳の時、お父さんが結核で他界すると、翌年の1902年1月、2歳の時には、お母さんも、お父さんから感染した結核で他界してしまったそうで、
大阪府三島郡豊川村大字宿久庄(現・茨木市宿久庄)の祖父母のもとに引き取られたそうです。
(その際、4歳年上の姉・芳子さんは、お母さんの妹・タニさんの婚家である秋岡家に引き取られたことから、お姉さんとは離れ離れになったそうです)
川端康成は幼い頃は予知能力があり神童と呼ばれていた
ちなみに、川端康成さんは、幼い頃、予知能力があったそうで、探し物のありか、明日の来客、天気予報を言い当てるなど、小さな予言ができたことから、重宝され、”神童”と呼ばれることもあったそうです。
また、小学校時代の成績も優秀で、特に作文で才能を発揮していたといいます。
川端康成が7歳の時には祖母が他界、10歳の時には姉が他界
その一方で、川端康成さんは、7ヶ月という早産で生まれたこともあり、幼い頃は虚弱体質だったそうで、おばあちゃんに、真綿でくるむように大事に育てられていたそうですが、
そんな優しかったおばあちゃんも、川端康成さんが小学校に入学した年の1906年9月9日、7歳の時に、他界してしまったそうで、川端康成さんは、おじいちゃんと2人暮らしになってしまったそうです。
また、1909年7月21日、10歳の時には、別々に暮らしていた姉の芳子さんも13歳で他界してしまったそうで、川端康成さんは、孫の死を悲しむおじいちゃんの姿を見て、これまで何人もの子供を早くに亡くしたうえ、孫にも先立たれたおじいちゃんを憐れんだのだそうです。
(川端康成さん自身はお姉さんとは2度しか会ったことがなく、おばあちゃんの葬儀の時のおぼろげな記憶しかなかったそうです)
川端康成は11歳~12歳の時は毎日のように庭の木の上で本を読んでいた
さておき、川端康成さんは、小学5~6年生(11歳~12歳)の頃は、読書が好きで、毎日のように庭の木斛(もっこく)の木に登って、樹上で本を読んでいたそうですが、
なんと、小学校の図書館の本は、一冊も漏らさず読み尽くしたのだそうです。
川端康成は12歳の時に大阪府立茨木中学校(現・茨木高校)に首席で入学
そんな川端康成さんは、1912年、12歳の時、尋常小学校を卒業すると、同年4月、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学したそうですが、
学校まで約6キロの道のりを歩いて通学していたことから、虚弱体質が改善され、体が丈夫になったそうです。
(茨木中学校は質実剛健の校風で、体操や教練に厳しく、マラソンも盛んに行われていたため、川端康成さんも鍛えられたそうです)
とはいえ、夜になると、家にいる寂しさに耐えきれず、おじいちゃんを一人残して、毎日のように、友人の宮脇秀一さんと憲一さん兄弟の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒(だんらん)に交ぜてもらっていたといいます。
(ただ、家に戻ると、おじいちゃんを一人きりにした罪悪感でいっぱいになったといいます)
川端康成は中学2年生頃から作家を志すようになっていた
また、川端康成さんは、中学2年生頃から、作家を志すようになったそうで、
「新潮」「新小説」「文章世界」「中央公論」などの文芸雑誌を読むようになったそうです。
川端康成は中学3年生の時に祖父も他界し孤児になっていた
そんな中、1914年5月25日未明、14歳(中学3年生)の時、寝たきりとなっていたおじいちゃんが他界してしまったそうで、川端康成さんは、ついに孤児となり、
同年8月には、豊里村(現・大阪市東淀川区)にある母親の実家・黒田家の伯父(母の兄)に引き取られ、学校まで、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったそうですが、
川端康成さんが本屋で買う本代がかさんだことから、1915年3月から(15歳)は中学校の寄宿舎に入ることになったのだそうです。
川端康成は中学3年生の時に「文章世界」などに短歌を投稿するようになっていた
その後、川端康成さんは、武者小路実篤などの白樺派などの作品に親しむほか、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学に憧れ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあったそうで、
そんな中、同級生の清水正光さんの作品が、地元の週刊新聞社「京阪新報」に掲載されたことから、川端康成さんも、
自分の書いたものを活字にしてみたい
と、思うようになり、「文章世界」などに短歌を投稿するようになったそうですが・・・
落選ばかりでほとんど反応はなかったのだそうです。
そこで、川端康成さんは、意を決し、1916年2月18日、16歳の時に、「京阪新報」を訪ねると、親切な小林さんという若い文学青年記者と知り合ったそうで、
小作品「H中尉に」や、短編小説、短歌を掲載してもらえるようになったのだそうです。
「【画像】川端康成の若い頃は?デビュー作品は?代表作や経歴を時系列まとめ!」に続く
1917年、17歳の時、「ちよ」で作家デビューすると、以降、「伊豆の踊子」「浅草紅団」「抒情歌」「禽獣」「雪国」「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」「古都」など、次々と作品を発表し、 1968年、69歳の時には、日本人初の …