1973年、25歳の時、フリーのコピーライターとして活動を始めると、その後、コピーライター以外にも、1978年、30歳の時には、矢沢永吉さんの自伝本「成りあがり」の構成と編集を手掛け、200万部を売り上げる大ヒットに導いた、糸井重里(いとい しげさと)さん。
そんな糸井重里さんは、「成りあがり」の成功がきっかけで、作詞も手掛けるようになり、沢田研二さんの「TOKIO」の作詞を担当すると、こちらも大ヒットとなっています。
今回は、糸井重里さんの、若い頃(コピーライターデビュー)から現在までの経歴を時系列でご紹介します。
「糸井重里の生い立ちは?幼少期は父子家庭!高校はバンド!大学は学生運動!」からの続き
糸井重里は19歳の時にデザイン事務所「サムシング」に就職しコピーライティングの仕事をしていた
糸井重里さんは法政大学中退後、会社勤めではなく、一人でやれる仕事を探していたそうですが、そんな中、知人に勧められて、「宣伝会議」のコピーライター養成講座に通うと、
「小さな会社に入ってみないか」と誘われ、1968年、19歳の時、デザイン事務所「サムシング」に就職したそうで、
必要に迫られてやった感じです。苦手ではなかったんでしょうね。得意だったかどうかは分かりませんが。嫌でしょうがないということはなかった。苦手なことはやめますから。
ただ、請求書が書けなかった。どうしたらいいのか、何を請求すればいいのか、まったく分からなくて。これははっきり苦手でしたね。徹夜していました。
と、語っています。
糸井重里は25歳の時にフリーのコピーライターとなっていた
すると、糸井重里さんは、翌年の1969年には、栗田工業主宰の「TVCFアイディア賞」で銀賞を、1971年には金賞を受賞するなど、早くもコピーライターとして頭角を現し、
1973年、25歳の時には、「サムシング」が倒産してしまったことから、そのまま、フリーランスのコピーライターとなったのでした。
糸井重里が27~28歳の時には数々の名キャッチコピーで脚光を浴びていた
そして、
- 1975年には、ジーンズブランド「WELDGIN」の「このジャンパーの良さがわからないなんて、とうさん、あなたは不幸な人だ!」のコピーで、「東京コピーライターズクラブ新人賞」
- 1976年には、イラストレーター湯村輝彦さんと共に制作した「WELDGIN」の広告で、「東京アートディレクターズクラブ賞(ADC賞)」
を受賞するなど、
糸井重里さんは、数々の名キャッチコピーで脚光を浴びたのでした。
糸井重里は30歳の時に矢沢永吉の自伝本「成りあがり」の構成と編集を手掛け200万部を売り上げるロングセラー
そんな糸井重里さんは、1978年、30歳の時には、男性誌「GORO」編集者の島本脩二さんに、
矢沢永吉の本、やってみない?
と、執筆を依頼されたそうで、
これを引き受け、矢沢永吉さんの自伝本「成りあがり」の構成と編集を手掛けると、
この本は、1989年までに18版を重ね、アーティストの自伝本としては異例の累計200万部のロングセラーを記録しています。
ちなみに、糸井重里さんは、取材では、(この矢沢永吉という人は、どんなふうにして作られていったのかを心底知りたかったことから)四六時中、矢沢永吉さんに張り付き、子供時代から順番に話を聞くという愚直なやり方で、
(パソコンのない時代だったため)テープを回し続け、チラシの裏に書いたメモをハサミとのりで切り貼りしたりと、家内制手工業のように作っていったそうですが、
そんな取材の中で、矢沢永吉さんの圧倒的な上昇志向に驚いたそうで、矢沢永吉さんの息遣いまで聞こえてきそうな独特の矢沢口調で書くことに方向転換し、魂を吹き込むように構成していったそうで、
(また、「成りあがり」というタイトルも糸井重里さんと島本脩二さんの2人で考えたのだそうです)
糸井重里さんは、
ぼくが永ちゃんに教わったのは「時流に乗らないこと」の大切さです──。
と、語っています。
糸井重里が31歳の時には沢田研二の「TOKIO」の作詞を担当し大ヒットを記録していた
すると、糸井重里さんは、この矢沢永吉さんの自伝本「成りあがり」の成功で、プロデューサーに依頼され、作詞も手掛けるようになったそうで、
1979年には、沢田研二さんの「TOKIO」の作詞を担当すると、大ヒットを記録し、作詞家としても成功しています。
(矢沢永吉さんから「次のレコードの作詞をやらないか」と誘われたという話も)
糸井重里は31歳の時には「東京糸井重里事務所」(現・株式会社ほぼ日)を設立していた
そんな糸井重里さんは、同年(1979年)には、「東京糸井重里事務所」(現・株式会社ほぼ日)を設立すると、
以降、雑誌の連載、テレビの司会者等、マルチな活動を展開しています。
糸井重里は40歳の時に「ほぼ日刊イトイ新聞」を開設していた
そして、1998年6月6日、40歳の時には、「ほぼ日刊イトイ新聞」を開設すると、以降、毎日、1日も欠かさず更新しており、
サイトでは、糸井重里さん自身が毎日書くエッセイ「今日のダーリン」をはじめ、様々な人へのインタビューやコラムなどあらゆるコンテンツが無料で楽しめます。
また、そのほかにも、
- 「ほぼ日手帳」「カレーの恩返し」など生活関連商品の開発販売
- 犬や猫とひとが親しくなるSNSアプリ「ドコノコ」
- 買い物を中心としたイベント「生活のたのしみ展」の開催
- 古典をテーマとする「ほぼ日の学校」開校
などを展開しています。
ちなみに、糸井重里さんは、言葉を使う仕事について、
本業はいまは「ほぼ日」という会社の社長です。仕事はどれも面白かったですよ。原料費いらないでしょう、言葉って。仕入れも自分でやれちゃう。
人に会う機会もたくさん作れました。やるかやらないかも自分で決められて、商品の価格の設定も自分でできる。こんな楽しいことはありません。
と、語っています。
糸井重里が41歳の時には任天堂ゲームの「マザー(MOTHER)」を制作
さらに、糸井重里さんは、41歳の時には、任天堂のゲーム「MOTHER」を企画制作しているのですが、
このゲームは、その後も、
- MOTHER2 ギーグの逆襲(1994)
- MOTHER1+2(2003)
- MOTHER3(2006)
と、シリーズ化し、熱狂的な人気を集めています。
糸井重里の主な著書(本)一覧
それでは、ここで、糸井重里さんの主な著書をご紹介しましょう。
- 1979年「スナック芸大全」
- 1980年「ペンギニストは眠らない」
- 1982年「私は嘘が嫌いだ 話の特集」
- 1983年「牛がいて、人がいて」
- 1983年「糸井重里全仕事」
- 1984年「こども用 One dozen adult stories」
- 1984年「糸井重里の萬流コピー塾」
- 1984年「糸井重里の萬流コピー塾U.S.A.」
- 1985年「糸井重里の萬流コピー塾0880」
- 1985年「こう生きるのが正しい! 糸井重里のオトナ相談室」
- 1985年「CHIKUWA 糸井重里画報」
- 1986年「糸井重里の萬流コピー塾」
- 1986年「家族解散」
- 1986年「糸井重里の萬流コピー塾(基本編)」
- 1988年「糸井重里の天然の萬流コピー塾」
- 1989年「おめでとうのいちねんせい」
- 1989年「85点の言葉(知的で口べたなあなたに)」
- 1990年「トイレをたすけたさるこ」
- 1992年「糸井重里のイトイ式コトバ論序説」
- 1993年「ビリーブ・ユー 信じる信じない信じたい。」
- 1993年「誤釣生活 バス釣りは、おもつらい」
- 2000年「豆炭とパソコン 80代からのインターネット入門」
- 2000年「詩なんか知らないけど 詩集」
- 2001年「ほぼ日刊イトイ新聞の本」
- 2001年「インターネット的」
- 2001年「ダーリンコラム」
- 2005年「合コン&宴会芸大全」
- 2007年「小さいことばを歌う場所」
- 2008年「思い出したら、思い出になった。」
- 2009年「ともだちがやって来た。」
- 2009年「ブイヨンの気持ち。」
- 2009年「イトイの通販生活」
- 2010年「あたまのなかにある公園。」
- 2011年「ブイヨンの日々。」
- 2011年「羊どろぼう。」
- 2012年「ボールのようなことば。」
- 2012年「夜は、待っている。」
- 2013年「ぽてんしゃる。」
- 2014年「ぼくの好きなコロッケ。」
- 2015年「忘れてきた花束。」
- 2015年「ふたつめのボールのようなことば。」
- 2016年「抱きしめられたい。」
- 2017年「思えば、孤独は美しい。」
- 2018年「他人だったのに。」
- 2020年「かならず先に好きになるどうぶつ。 」
- 2021年「こどもは古くならない。 」
- 2023年「生まれちゃった。」
ほか、数多くの著書を発表しています。
「糸井重里は樋口可南子との不倫が原因で元妻と離婚?娘は池田あんだ!」に続く
1978年、矢沢永吉さんの自伝本「成りあがり」の構成と編集を手掛けると、1979年には、沢田研二さんの楽曲「TOKIO」の作詞をを担当し、 1980年代には、「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活」「くう …