歯科医を目指して二浪中の1969年、「ザ・フォーク・クルセダーズ」のデビュー曲、「帰って来たヨッパライ」を聴き、音楽に転向することを密かに決意したという、井上陽水(いのうえ ようすい)さんは、
その後、RKBラジオ番組「スマッシュ!!11」の視聴者が作った音楽を流すコーナーに、自作曲「カンドレ・マンドレ」を持ち込むと、見事採用され、1969年、21歳の時には、「アンドレ・カンドレ」名義でシングル「カンドレ・マンドレ」でレコードデビューを果たすのですが・・・
「井上陽水の生い立ちは?中高時代はビートルズ熱中で歯科大に二浪していた!」からの続き
井上陽水は20歳の時に自作曲「カンドレ・マンドレ」をラジオ番組「スマッシュ!!11」に持ち込み採用されていた
井上陽水さんは、歯科大学に進学する為、二浪中だった1969年、「ザ・フォーク・クルセダース」の「帰って来たヨッパライ」を聴いて「自分もできる」と思い、曲作りを始めたそうで、
自作曲「カンドレ・マンドレ」を、自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)して、4月16日、地元九州のRKB毎日放送のラジオ番組「スマッシュ!!11」に持ち込むと、見事採用されたそうで、
(「スマッシュ!!11」は、1969年4月に放送が開始したばかりで、この番組には、視聴者が作った音楽を流すコーナーがあったそうです)
当時、この「カンドレ・マンドレ」を聴いたディレクターの野見山実さんは、
声質も異色で、陽気だがどこか寂しげなところに驚いた
と、語っています。
(この時、井上陽水さんは、芸名を「マンドレ」と考えていたそうですが、野見山実さんによって、「アンドレ・カンドレ」に変えられたそうです)
ちなみに、この「カンドレ・マンドレ」は番組内で放送されると、数多くのリクエストを受けたそうですが、
後に井上陽水さんは、
友人にリクエストのはがき百枚配った
と、話しており、
リクエストの大半は、井上陽水さんが友人(主に浪人仲間)にハガキを配って、リクエストを出すよう依頼したものだったそうです(笑)
井上陽水は20歳の時にCBSソニーからデビューが決定していた
さておき、放送後、井上陽水さんは、野見山実さんからホリプロを紹介され、レコード会社もCBSソニーに決まると、発売を急いだCBSソニーの意向により、同年(1969年)6月、レコーディングのため急遽上京することが決まったそうです。
ただ、井上陽水さんの両親は、当然ながら、家業の歯科医院を継ぐため歯科大学に二浪中だった井上陽水さんの上京に反対。
それでも、最終的には、井上陽水さんの強い信念に、お父さんも、
1曲吹き込んだら帰ってくるんだな。音楽がダメでもお前には別の生きる道がある
と、最終的には許してくれたのだそうです。
ちなみに、野見山実さんが、すぐに知り合いのCBSソニーの中曽根晧二さんに話を持ち込むと、中曽根晧二さんは良い反応を見せ、発売を急いだそうですが、
実は、当時、CBSソニーは、カルメン・マキさんの「時には母のない子のように」が大ヒットしており、このヒットの余勢をかって、さらなる一発を狙っていたところだったそうで、
躊躇している間に井上陽水さんを他社にとられることを恐れ、すぐに中曽根晧二さんに、井上陽水さんを福岡まで迎えに行くよう指示したのだそうです。
井上陽水は21歳の時に「アンドレ・カンドレ」名義で「カンドレ・マンドレ」でデビューするも全く売れなかった
こうして、井上陽水さんは、1969年9月1日、21歳の時、芸名「アンドレ・カンドレ」として、楽曲「カンドレ・マンドレ」でデビューを果たしたのですが・・・
「カンドレ・マンドレ」
ほとんど注目されず、不発に終わったのだそうです。
(井上陽水さん本人は、「大ヒット間違いなし!」と確信していたそうです)
井上陽水は21歳の時にも「アンドレ・カンドレ」名義で「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」「花にさえ、鳥にさえ」をリリースするも鳴かず飛ばずだった
それでも、井上陽水さんは、その後も、続けて、
- 1969年12月には、「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」
「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」 - 1970年10月には、「花にさえ、鳥にさえ」(黄金コンビと言われた松山猛さんと加藤和彦さんからの楽曲提供)
「花にさえ、鳥にさえ」
と、リリースするのですが・・・
これまた、鳴かず飛ばずに終わってしまったのでした。
「【画像】井上陽水の若い頃は?「夢の中へ」「傘がない」「氷の世界」ほか代表曲やアルバム一覧!」に続く
1969年、21歳の時、「アンドレ・カンドレ」名義でレコードデビューするも、鳴かず飛ばずだったことから、1971年には「ポリドール・レコード」に移籍し、1972年、ファーストシングル「人生が二度あれば」で再デビューした、 …