上方よしおさんとコンビを組んだ二代目「B&B」も解散となり、三度目の正直で、島田洋八さんと三代目「B&B」を結成した、島田洋七(しまだ ようしち)さんは、
1980年1月には、「花王名人劇場」で、従来にはないスピードスタイルの漫才を披露してたちまち脚光を浴びると、同年4月には、「お笑いスター誕生」でストレートで10週勝ち抜きを達成してグランドチャンピオに輝き、たちまち、漫才ブームを巻き起こしました。
今回は、島田洋七さんの、若い頃(三代目「B&B」時代以降)から現在までの経歴を時系列でご紹介します。
「島田洋七の下積時代は?B&Bの相方は洋八の前は上方よしおや団順一だった!」からの続き
島田洋七は25歳の時に島田洋八と三代目「B&B」を結成していた
上方よしおさんとコンビを組んだ二代目「B&B」も解散となった島田洋七さんは、舞台に出ることもできず、なんば花月をふらふらし、失意の中、漫才をやめようかと悩んでいたそうですが、
再び、桂三枝(現・六代目桂文枝)さんから、
またコンビ解散したんだって。(相方に)あいつはどうや(と指し)
あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ
これからの漫才は顔がええ方がええかも。おまえが一方的にしゃべったらええやん
などと、花月劇場の幕引き&進行役をしていた島田洋八さんを勧められたそうで、
桂三枝さんのアドバイスを受け入れ、役者志望だった島田洋八さんを、
俺と一緒に漫才で勝負しよう
と、口説き、1975年9月、25歳の時、三代目「B&B」を結成したそうです。
島田洋七が27歳の時には三代目「B&B」として実力が認められていた
すると、三代目「B&B」はすぐに軌道に乗り、コンビ結成2年目の1977年には、「上方お笑い大賞銀賞」を、翌年の1978年には「第13回上方漫才大賞奨励賞」を受賞するなど、実力が認められたそうで、
特に、劇場内で笑いを取ることに関しては、一、二を争うほどで、「久方ぶりの上方漫才の収穫」と称されたそうです。
島田洋七が27歳~28歳の頃は「B&B」で実力が認められていたにも関わらずテレビ出演することができなかった
しかし、この頃、関西でも演芸番組が激減していたうえ、吉本は、「やすしきよし」「コメディNo.1」「Wヤング」など、実力者が揃って層が厚く、新人だった「B&B」が入り込む余地がなかったことから、
本来なら、テレビにバンバンに出演し、とっくにお茶の間の人気者になっていてもおかしくないところ、テレビには滅多に出ることができず、売れっ子というわけではなかったのだそうです。
島田洋七は29歳の時に吉本興業を退社して東京行きを敢行していた
そんな中、島田洋七さんが、活躍の場所がないことを吉本興業に相談すると、
吉本興業の重役には、
ザ・ドリフターズみたいなんをやれ
と、言われたそうで、
1978年には、若手のリーダーとして、楽屋で、「ザ・ぼんち(まさと・おさむ)」と「西川のりお・上方よしお」と明石家さんまさんに声をかけ、「ビールス7」(後に「チンチラチン」)を結成すると、
「ビールス7」の前説(本番前に観客に行う説明)は好評だったそうで、
かねてから、「ヤングおー!おー!」の林プロデューサーに、
番組でウケたらコーナーを持たせてやる
と、言われていたことから、
「ビールス7」は、いよいよレギュラーになることになったそうですが・・・
なんと、番組台本には、「B&B」の名前はなく、代わりに、弟弟子の「紳助・竜介(島田紳助・島田竜介)」の名前が入っていたのだそうです。
これに、島田洋七さんの吉本興業への不信感は決定的なものとなったそうで、かねてより、希望していた東京進出を決意すると、相方の島田洋八さんも二つ返事でOKしてくれたことから、吉本興業を退社し、1979年9月、東京行きを敢行したのだそうです。
ちなみに、「B&B」が「ビールス7」から外されたのは、桂きん枝(後の4代桂小文枝)さんが、以前、居酒屋で島田洋七さんに引きずり回されたことを根に持っていて、プロデューサーに告げ口していたことが原因だったそうです。
島田洋七が30歳の時には「B&B」として爆発的人気を博し漫才ブームを牽引していた
こうして、念願の東京進出を果たした島田洋七さん率いる「B&B」は、1980年1月20日放送の「花王名人劇場」(ゴールデンタイムの1時間番組)に、「やすしきよし」「セントルイス」という東西の超売れっ子コンビと肩を並べて出演すると、
ゴールデンタイムでの放送だったことや、従来にはないスピードスタイルの漫才だったことで、その反響は凄まじく、
翌日からは、街を歩けばサイン攻めにあうほか、番組スポンサーの花王石鹸から「ハイトニックシャンプー」のCM出演オファー(初のCMの出演オファーだったそうです)も舞い込むなど、文字通り、”一夜明けたら大スター”になっていたのだそうです。
1980年の「B&B」(島田洋八さん(左)と島田洋七さん(右))。
また、「B&B」は、1980年4月から始まった「お笑いスター誕生」でも、ストレートで10週勝ち抜き、グランドチャンピオに輝くと、
その後、レギュラー番組も増え続け、全盛期には1週間で15本ものレギュラー番組を抱える超売れっ子となり、1980年の漫才ブームを牽引したのでした。
(島田洋七さんの収入も飛躍的に増え、毎月のお給料はデパートの紙袋に札束がぎっしり詰まるほどだったそうです)
1980年の「B&B」(島田洋八さん(左)と島田洋七さん(右))。
島田洋七は33歳の時に「B&B」を解散し休養していた
しかし、漫才ブームは長くは続かず、1982年に「お笑いスター誕生!!」が放送終了すると、「B&B」の人気は急下降し、翌年の1983年秋(島田洋七さん33歳)には、「B&B」は解散。
そして、島田洋七さんは、精神的な理由から、6年間の休養期間に入り、表舞台から遠ざかったのでした。
島田洋七は休養後はたけし軍団のコック長ほか飲食業にも携わっていた
その後、島田洋七さんは、
- 国分健二(浮世亭ケンジ)さんと新コンビ「スティング」を結成
- 間寛平さんと漫才コンビ「洋・寛」を結成
- 広島風お好み焼き店「モミジハウス」をオープン(新宿・渋谷・原宿などで6店舗)
- たこ焼き屋(高円寺)喫茶店(新橋)をオープン
- ビートたけしさんと共同でラーメン店「まぼろし軒」をオープン(埼玉県所沢市)
- ゲイバーをオープン(六本木)
など、芸人としての活動のほか、飲食業にも手を出すのですが・・・
次々と失敗。
また、1990年以降は、ビートたけしさんと7年ほど同居し、たけし軍団のコック長のようなことをしていたこともあったといいます。
島田洋七は40代の時に芸人引退を決意するもビートたけしに引き止められていた
そんな島田洋七さんは、芸人引退を決意したこともあったそうですが、
ビートたけしさんに相談すると、
芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ
と、一喝され、引退を思いとどまったそうで、
1996年、46歳の時、吉本興業に復帰すると、島田洋八さんを誘い、再び、「B&B」を復活させたのでした。
島田洋七は54歳の時に著書「佐賀のがばいばあちゃん」が大ベストセラーとなっていた
その後、島田洋七さんは、1999年には、佐賀県佐賀市東与賀町に移住し、講演会中心の活動を続けていたそうですが、
そんな中、2004年、54歳の時、佐賀で祖母と暮らした少年時代を綴った「佐賀のがばいばあちゃん」がシリーズ累計で1000万部を突破する大ベストセラーとなると、漫画化、映画化もされる大ブームを巻き起こし、島田洋七さんは、再び、脚光を浴びたのでした。
ちなみに、この「佐賀のがばいばあちゃん」は、ビートたけしさんに強く勧められ、1987年に「振り向けば哀しくもなく」という題名で、太田出版から3000部自費出版したのが始まりで、
2001年には、加筆・修正して、「佐賀のがばいばあちゃん」と題名を変更し、愛育社から2度目の自費出版したそうですが、
2004年に、徳間書店で再出版されると、一気に話題となったのだそうです。
「島田洋七とビートたけしはフライデー襲撃事件で親友になっていた!7年も同居?」に続く
1980年、漫才コンビ「B&B」として、漫才ブームを巻き起こし牽引した、島田洋七(しまだ ようしち)さんですが、共に漫才ブームを牽引した「ツービート」のビートたけしさんとは、お互いの実力を認め合う仲で、親友とし …