1982年、24歳の時、「安全地帯」としてシングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、以降、「ワインレッドの心」「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」など多数のヒット曲を飛ばし、

その後も、活動休止と活動再開を繰り返す「安全地帯」を、ギタリストとして支え続けてきた、矢萩渉(やはぎ わたる)さん。

そんな矢萩渉さんは、13歳の時に、お兄さんの影響でギターを始め、1972年、中学3年生の時に、友人の田中裕二さんとバンドを結成すると、高校進学後は、田中裕二さんと共に六土開正さんのバンドに参加し、

20歳の時には、田中裕二さんと六土開正さんと共に玉置浩二さん率いる「安全地帯」に合流したといいます。

今回は、矢萩渉さんの幼少期(生い立ち)から「安全地帯」として上京するまでをご紹介します。

矢萩渉

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矢萩渉のプロフィール

矢萩渉さんは、1957年6月27日生まれ、
北海道旭川の出身、

血液型はA型、

ちなみに、「矢萩渉」は本名で、愛称は「カキ君」です。

矢萩渉は13歳の時に兄の影響でギターを始めていた

矢萩渉さんは、教師だったお父さんのもと誕生すると、1970年、13歳の時、お兄さんの影響でギターを始めたそうで、

地元・旭川市の「マチイ楽器」や「クニハラ楽器店」に出入りするようになり、ギターの腕を磨いたそうです。

矢萩渉は中学3年生の時に田中裕二とバンドを結成していた

そんな矢萩渉さんは、中学生の時には、同じく音楽が好きだった同級生の田中裕二さん(後の「安全地帯」のドラマー)と親交を深めると、

1972年、中学3年生の時には、田中裕二さんとバンドを結成したそうです。

(田中裕二さんとは、6歳の時からの幼馴染だそうです)

矢萩渉は高校1年生の時に田中裕二と共に「六土開正バンド」に参加していた

その後、矢萩渉さんは、高校進学後の1973年には、地元・旭川市でバンド活動を開始したそうですが、六土開正さんと知り合うと、田中裕二さんと共に、六土開正さんが新たに結成する「六土開正バンド」に参加したそうで、

(メンバーは、矢萩渉さん、六土開正さん、田中裕二さんの3人だったそうです)

「六土開正バンド」では、「オールマン・ブラザーズ・バンド」などのサザン・ロックをメインにコピー演奏活動を行い、1974年からは、音楽コンテストにも出場するようになったのだそうです。

六土開正バンド

ちなみに、矢萩渉さんは、自身の音楽ルーツについて、

僕は、中学校(小学校?)の高学年からちょっとひねくれてたんで、ブルースしか聴かなかったんですよね。

しかも北海道だったので、なかなかそんな人は少なくて。B.B.キングから始まって、高校の3年間ぐらいはブルースに浸ってましたね。ブルース・セッションとかよく参加してました。

と、語っています。

矢萩渉は20歳の時に六土開正と田中裕二と共に「安全地帯」に加入

そんな中、矢萩渉さんは、玉置浩二さんと知り合い、玉置浩二さんのバンド「安全地帯」のメンバーとも親交を深めると、

1977年12月、20歳の時には、「六土開正バンド」が「安全地帯」に吸収合併される形で、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)、六土開正さん(キーボード)が「安全地帯」に加入したそうで、

「安全地帯」は、玉置浩二さん(ボーカル)、宮下隆宏さん(ベース)、武沢豊さん(ギター)、武沢俊也さん(キーボード)、大平市治さん(ドラム)に、矢萩渉さんら3人を加え、8人編成のバンドとなったそうです。

北海道時代の「安全地帯」
北海道時代、8人編成だった頃の「安全地帯」。

(洋楽コピーバンドの「六土開正バンド」の演奏技量と、オリジナル楽曲バンドの「安全地帯」の楽曲制作能力に、互いが惹かれ合って意気投合したのだそうです)

矢萩渉は20歳の時に「安全地帯」として練習スタジオ「MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション)」を作っていた

その後、矢萩渉さんたち「安全地帯」のメンバーは、1978年2月には、自分たちのスタジオを作ろうと、北海道旭川市郊外の永山地区に廃農家を借りて、改築し、

練習スタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」(略称MFP=”音楽を耕す農夫集団”の意)を4ヶ月かけて完成させたそうで、

共同生活をスタートし、連日連夜、1日7~8時間に渡り、演奏練習、楽曲制作、録音に励む日々を送ったそうですが、

改築にかかった費用200万円は借金だったため、メンバーはアルバイトをしながら練習に励んだのだそうです。

(宮下隆宏さんと田中裕二さんは途中で脱退したそうです)

矢萩渉は23歳の時に「安全地帯」としてキティレコードと契約していた

すると、同年(1978年)11月頃には、キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)が、「安全地帯」のデモテープを聞いて、その音楽に関心を示し、ディレクターの金子章平さんとプロデューサーの星勝さんが、相次いでMFPまで訪ねて来たそうで、

1980年10月、「安全地帯」は、キティレコードと契約を結んだのだそうです。

(その前にも、レコードデビューのチャンスが巡ってきていたそうですが、最終的には、バンドサウンドが未完成と判断され、保留となっていたそうです)

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矢萩渉は24歳の時に「安全地帯」として井上陽水のバックバンドに抜擢されて上京していた

その後、同年(1981年)7月には、星勝さんの紹介で、井上陽水さんが合宿所を訪ねてきたそうで、

この時は、井上陽水さんと2曲セッションしただけで、井上陽水さんは帰って行ったそうですが、後日、井上陽水さんから連絡があり、「安全地帯」が井上陽水さんのコンサートツアーのバックバンドに抜擢されることとなったそうで、「安全地帯」のメンバーは上京することとなったのだそうです。

「【画像】矢萩渉の若い頃は?安全地帯がヒットも忸怩たる思いをしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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