1982年、「安全地帯」として、シングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、当初はパッとしなかったものの、1983年には、4枚目のシングル「ワインレッドの心」が大ヒットを記録し、
以降、「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」など、立て続けにヒットを飛ばした、矢萩渉(やはぎ わたる)さん。
今回は、矢萩渉さんの若い頃(「安全地帯」でデビューしてからブレイクするまで)の代表曲やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
「矢萩渉の生い立ちは?田中裕二と六土開正と共に玉置浩二らに合流していた!」からの続き
矢萩渉は24歳の時に「安全地帯」として「萠黄色のスナップ」でレコードデビューするもパッとしなかった
1981年秋から、井上陽水さんの全国ツアーにバックバンドとして帯同するようになった矢萩渉さんら「安全地帯」は、1982年2月25日には、「萠黄色のスナップ」でレコードデビューを果たすと、
「萠黄色のスナップ」
その後も、
- 同年10月25日には、2枚目のシングル「オン・マイ・ウェイ」
「オン・マイ・ウェイ」 - 翌年の1983年1月25日には、ファーストアルバム「安全地帯 I Remember to Remember」
と、リリースするのですが・・・
売上はパッとしない状態が続きます。
矢萩渉は26歳の時に「安全地帯」としてシングル「ワインレッドの心」が大ヒット
しかし、1983年11月25日、4枚目のシングル「ワインレッドの心」をリリースすると、
サントリーのワインのCMとのタイアップや、人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」で歌ったことなどから火がつき、最終的には70万枚を売り上げる大ヒットを記録して、「安全地帯」は、たちまちスターダムに駆け上がっており、
「ワインレッドの心」
矢萩渉さんは、この頃の生活について、
とにかく忙しいし、もう毎日何やってるかわかんない(笑)。
ツアーで年間80本ぐらいライヴをやってましたね。
それ以外に毎週2回はテレビに出たり、アルバムを年に1枚か2枚は作っていたので、すごかったな。でも、音楽を作るっていうことが一番楽しかったよね。
などと、語っています。
矢萩渉は27歳~29歳の時に「安全地帯」として「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」などが大ヒット
そんな「安全地帯」は、その後も、
- 1984年5月には、2枚目のアルバム「安全地帯II」
- 1984年10月には、7枚目のシングル「恋の予感」
シングル「恋の予感」 - 1984年12月には、3枚目のアルバム「安全地帯III~抱きしめたい」
- 1985年1月には、8枚目のシングル「熱視線」
「熱視線」 - 1985年6月には、9枚目のシングル「悲しみにさよなら」
「悲しみにさよなら」 - 1985年10月には、10枚目のシングル「碧い瞳のエリス」
「碧い瞳のエリス」 - 1985年11月には、4枚目のアルバム「安全地帯IV」
- 1986年7月には、11枚目のシングル「プルシアンブルーの肖像」
「プルシアンブルーの肖像」
と、立て続けにヒットを飛ばし、その人気を不動のものにしています。
矢萩渉は「安全地帯」が大ヒットを連発するも忸怩たる思いがあった
ただ、矢萩渉さんは、これらの曲が大ヒットしたことに、ミュージシャンとしては忸怩(じくじ)たる思いがあったそうで、
(忸怩たる思いが)ありましたね。やっぱり「ワインレッドの心」「悲しみにさよなら」「恋の予感」「Friend」の王道しかみんな知らないじゃないですか。
音楽的にすごい実験してることは、マニアックな人にはわかっていただけるけど、やっぱり安全地帯全体のイメージとしては、その王道でしたね。
と、語っています。
(ちなみに、当時、ボーカルの玉置浩二さんは、自身が作曲した以外の作品は歌わないというスタンスだったそうで、矢萩渉さんは、「熱視線」のB面「一秒一夜」などの楽曲を作曲すると、歌唱も担当しています)
「【画像】矢萩渉の「安全地帯」休止以降は玉置浩二ソロもサポート!現在は?」に続く
人気絶頂だった1988年に「安全地帯」が活動を休止した後は、作曲家として活動を開始すると、1990年には、シングル「冒険者」でソロデビューを果たし、以降、ソロとして活動するかたわら、玉置浩二さんのソロ活動もサポートしてい …