1982年、26歳の時、「安全地帯」としてシングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、以降、40年以上に渡り、「安全地帯」の音楽的土台を支え続けている、六土開正(ろくど はるよし)さん。

そんな六土開正さんは、少年時代、ブリティッシュ・ロックに夢中になり、ベースを始めると、高校時代には、バンド活動を始め、1973年、18歳の時には、「六土開正バンド」を結成していたといいます。

今回は、六土開正さんの幼少期(生い立ち)から「安全地帯」として上京するまでをご紹介します。

六土開正

Sponsored Link

六土開正のプロフィール

六土開正さんは、1955年10月1日生まれ、
北海道稚内市の出身(旭川市という話も)、

血液型はA型、

学歴は、旭川工業高等専門学校卒業?

ちなみに、「六土開正」は本名で、愛称は「六ちゃん」です。

六土開正は少年時代にグループ・サウンズ⇒ブリティッシュ・ロックに夢中になっていた

六土開正さんは、少年時代、最初は、グループ・サウンズから始まり、それを通して、洋楽を聴き始めたそうで、特に、ブリティッシュ・ロックに夢中になると、

エリック・クラプトンが弾くギター、「クリーム」、「ブラインド・フェイス」などをよく聴いていたそうです。

六土開正は16歳の時にバンド活動を開始していた

その後、六土開正さんが、どのような経緯でベースを始めたのかは不明ですが、

1971年~1972年、16歳頃には、北海道旭川市で年上の人達とバンド活動を開始したそうで、六土開正さんは、この時にはすでに、優れた演奏技術を持っていたといいます。

六土開正は18歳の時、矢萩渉と田中裕二を誘い「六土開正バンド」を結成していた

そんな六土開正さんは、「マチイ楽器店」や「クニハラ楽器店」によく出入りしていたそうですが、そこで、矢萩渉さんと田中裕二さんに知り合うと、

1973年、自身のバンド解散後、矢萩渉さんと田中裕二さんを誘って、新たに「六土開正バンド」を結成し、「オールマン・ブラザーズ・バンド」などのサザン・ロックを主体としたコピー演奏活動に励んだそうです。

(「六土開正バンド」は、六土開正さん、矢萩渉さん、田中裕二さんの3人のバンドだったそうです)

六土開正バンド
「六土開正バンド」

六土開正は19歳の時に「六土開正バンド」ごと「安全地帯」に合流していた

こうして、六土開正さんは、1974年から1976年にかけて、「六土開正バンド」として音楽コンテストに出場し始めたそうですが、

そんな中、玉置浩二さんと知り合うと、玉置浩二さん率いる「安全地帯」のメンバーとも親交を深め、

1977年12月、22歳の時には、「六土開正バンド」が「安全地帯」に吸収合併される形で、「安全地帯」に合流したそうで、

「安全地帯」は、六土開正さん(キーボード)、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)、玉置浩二さん(ボーカル)、宮下隆宏さん(ベース)、武沢豊さん(ギター)、武沢俊也さん(キーボード)、大平市治さん(ドラム)の8人編成のバンドとなったのだそうです。

(ただ、1978年に宮下隆宏さんが脱退すると、六土開正さんは、キーボードから、もともとやっていたベースに転向しています)

ちなみに、「安全地帯」は、それまでハードロック一辺倒だったそうですが、六土開正さんらの影響で、よりリズムのはっきりしたアメリカン・ロック、特に「ドゥービーブラザーズ」や「ジャクソン・ブラウン」を演奏するようになったそうです。

六土開正は22歳の時に「安全地帯」として「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション(MFP)」を設立しメンバーと共に共同生活を送っていた

その後、1978年2月、六土開正さんら「安全地帯」のメンバーは、自分たちのスタジオを作ろうと、北海道旭川市郊外の永山地区に廃農家を借りて、リフォームし、

「安全地帯」専用スタジオ(練習場)「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション(MFP=”音楽を耕す農夫集団”の意)」を4ヶ月かけて完成させ、共同生活をスタートさせたそうで、

メンバーは、連日連夜、1日7~8時間に渡り、演奏練習、楽曲制作、録音に励む日々を送ったのだそうです。

(そのかたわら、改築にかかった費用500万円が借金だったため、メンバーはアルバイトにも精を出したそうです)

北海道時代の「安全地帯」
北海道時代の8人編成の「安全地帯」。前列中央が六土開正さん。

(1978年~1979年頃、宮下隆宏さんと田中裕二さんが脱退したそうです)

六土開正は24歳の時に結核性の病気を患い長期入院を余儀なくされていた

しかし、そんな中、六土開正さんは、1980年4月、結核性の病気を患い、長期入院を余儀なくされていたといいます。

それでも、六土開正さんは、同年10月、6ヶ月ぶりのライブで、医師に特別の許可を得て復帰を果たすと、翌11月には、無事、退院したそうですが・・・

実は、六土開正さんが入院する前年の1979年11月には、武沢豊さんが交通事故に巻き込まれて重傷を負い、長期入院を余儀なくされていたそうで、

メンバー2人を欠いた「安全地帯」は、ライブ活動も中止するなど、活動がままならなかったといいます。

そんな中、1980年10月、キティ・レコードから2度目の誘いが来たそうで、

(1979年5月に、キティ・レコードからレコーディングの誘いが来ていたそうですが、この時は、最終的には、バンドサウンドが未完成と判断され、レコードデビューは保留となっていたそうです)

玉置浩二さんは、

このときまでは、正直いって、つらいことの連続だったね

と、語っています。

Sponsored Link

六土開正は25歳の時に「安全地帯」として井上陽水のバックバンドに抜擢されていた

その後、1981年7月には、キティ・レコードのプロデューサーの星勝さんの紹介で、井上陽水さんが合宿所を訪ねてきたそうで、

その時は、井上陽水さんと2曲セッションをしただけで、井上陽水さんは帰って行ったそうですが、後日、井上陽水さんから連絡があり、井上陽水さんのコンサートツアーのバックバンドに「安全地帯」が抜擢されることとなったそうで、六土開正さんら「安全地帯」は上京することとなったのたそうです。

「【画像】六土開正の若い頃は?サラリーマン?現在は?結婚は?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link