スタジオ・ミュージシャンとしての仕事が増え、ギャラが上がっていくも、自分が興味を持てない歌謡曲や歌謡ポップスばかりの中、音楽的な行き詰まりを感じて渡米を決意したという、佐藤博(さとう ひろし)さんは、
アメリカ滞在中に、ハービー・ハンコックの「Mr. Hands」というアルバムで、ロジャー・リンが発明したドラムマシン・LINN LM-1の音色を聴いて衝撃を受けたといいます。
今回は、佐藤博さんの、若い頃(渡米以降)から死去するまでの、アルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
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佐藤博は32歳の時にアメリカに移住
1979年夏、現状打破のため、アメリカへの移住を決意し、渡米したという、佐藤博さんですが、1000万円近くあった蓄えは、1年も経たないうちに全て尽きてしまったといいます。
ただ、どうしても、まだ帰国する気にはなれず、少しずつ知り合った、マリア・マルダーさんやエイモス・ギャレットさんら現地のミュージシャンたちのセッションに参加するようになったといいます。
佐藤博は33歳の時に「アルファ・レコード」と契約
そして、1980年、33歳の時には、ちょうど「アルファ・アメリカ」を設立し、海外での活動を展開し始めたところだったという、「アルファレコード」の社長・村井邦彦さんに相談すると、
佐藤博さんは、「アルファ・アメリカ」の専属アーティスト兼プロデューサーとして、「アルファ・レコード」と契約を結ぶことができたといいます。
佐藤博は34歳の時にドラムマシン・LINN LM-1の音色を聴いて衝撃を受け帰国を決意していた
そんな中、1981年、34歳の時には、ハービー・ハンコックさんの「Mr. Hands」というアルバムで、ロジャー・リンさんが発明したドラムマシン・LINN LM-1の音色を聴いて衝撃を受けたそうで、
これを使えば、海外のミュージシャンに頼らなくても、日本でもアルバムが作れる(自分の求めるドラムサウンドは明確なので打ち込みすればできる)と、帰国を決意したのだそうです。
佐藤博は35歳の時にドラムマシン・LINN LM-1を使用して制作したアルバム「awakening」をリリース
そこで、佐藤博さんは、「アルファ・レコード」の社長・村井邦彦さんに、ギャラの代わりに、ドラムマシン・LINN LM-1を買って欲しいと無理やりお願いし、1982年にアルバムの制作を始めると、同年には、デモテープを携えて帰国したそうで、
1982年6月25日、満を持して、LINN LM-1を使って制作した4枚目のアルバム「awakening」をリリースしたのだそうです。
ちなみに、帰国後、佐藤博さんは、
自分でも、前々から作りたいと思っていたものに一番近付けました。
ほかのミュージシャンと一緒にやると、自分の意思を徹底したいという意味ではどうしても埋められない部分があって、それがジレンマになっていた。
リンドラムLINN LM-1を使うことで、京都時代の多重録音のころと同じ感覚に戻れたんです。自分にはこれが合っていると思いました。
と、語っています。
佐藤博は60歳~64歳の時にDREAMS COME TRUE、青山テルマほかの音楽監督・編曲・サウンドプロデュースほか
そんな佐藤博さんは、帰国後の1980年代以降は、CM音楽やテレビ番組のテーマ曲を数多く制作すると、2000年代以降は、新人アーティストの発掘やプロデュース活動に注力し、
- 2007年には、DREAMS COME TRUEの「史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND 2007」の音楽監督、SoulJaの「DOGG POUND」をプロデュース
- 2008年には、青山テルマさんの「そばにいるね」の編曲・サウンドプロデュース
- 2011年には、ふくい舞さんの「いくたびの櫻」作曲・編曲・サウンドプロデュース
を、担当すると、
編曲、サウンドプロデュース、録音、ミックスダウン、マスタリング、エンジニアリングを手掛けるほか、キーボード・リズムプログラミング・シンセベースの演奏を全て一人で行ったという、青山テルマさんの「そばにいるね」は、大ヒットを記録し、「第50回日本レコード大賞 優秀作品賞」を受賞、
ふくい舞さんの「いくたびの櫻」は、「第44回日本有線大賞」を受賞しています。
「そばにいるね」
佐藤博の死因は?
しかし、佐藤博さんは、2012年10月26日、横浜市都筑区北山田にある自宅1階のプライベートスタジオ”Studio SARA”で、出血性大動脈瘤により、65歳で急逝されています。
佐藤博さんは、座り込むように倒れているところを、訪ねてきた友人により発見され、110番通報されたそうで、駆けつけた県警は、病死の可能性が高いとみて、死因などを調べていたそうですが、その後、死因は、出血性大動脈瘤とされています。
佐藤博のソロアルバム一覧
それでは、最後に、佐藤博さんの主なソロアルバムをご紹介しましょう。
- 1976年「SUPER MARKET」
- 1977年「Time」
- 1979年「ORIENT」
- 1982年「awakening」
- 1984年「SAILING BLASTER」
- 1986年「SOUND OF SCIENCE」
- 1987年「FUTURE FILE」
- 1988年「AQUA」
- 1989年「TOUCH THE HEART」
- 1990年「Good Morning」
- 1991年「Self Jam」
- 1993年「HAPPY & LUCKY」
- 1995年「ALL OF ME」
- 1996年「Oracle」
- 2003年「THAT’S ALL RIGHT」
- 2006年「AMAZINGⅡ」
と、アルバムをリリースしています。
さて、いかがでしたでしょうか。
佐藤博さんの、
- 佐藤博の生い立ちは?実家が寺で将来に絶望もギターに生き甲斐を見出していた!
- 佐藤博のプロフィール
- 佐藤博は真言宗の寺の長男として誕生していた
- 佐藤博は中学2年生の時に住職にならなければならないことに絶望していた
- 佐藤博は中学2年生の時にギターを弾いて衝撃を受け、生きる気力が湧いていた
- 佐藤博は高校1年生の時にビートルズの影響で多重録音に没頭するようになっていた
- 佐藤博は高校卒業後はキャバレーでギターの弾き語りを始めていた
- 佐藤博の若い頃(関西時代)は?ピアニストデビュー後は歌謡歌手のバックバンド!
- 佐藤博は高校卒業後はピアノの練習と多重録音に没頭していた
- 佐藤博は23歳の時にピアニストとしてプロデビュー
- 佐藤博が20代前半の頃は歌謡曲の歌手のバックバンドを務めることが多かった
- 佐藤博は25歳の時に上田正樹と出会い、ブルース系やフォーク系のミュージシャンと共演するようになっていた
- 佐藤博は27歳の時に鈴木茂にスカウトされて上京
- 【画像】佐藤博の若い頃は?細野晴臣や大瀧詠一のアルバム制作にも参加!
- 佐藤博は28歳の時に鈴木茂にスカウトされ「ハックルバック」を結成
- 佐藤博が28歳の時に「ハックルバック」が解散
- 佐藤博は28歳の時に細野晴臣のスタジオアルバム「トロピカル・ダンディー」のレコーディングに参加
- 佐藤博は29歳の時に1stソロアルバム「Super Market」をリリース
- 佐藤博は29歳の時に吉田美奈子のスタジオ・アルバム「FLAPPER」で初のサウンドプロデュース
- 佐藤博は31歳の時に2ndアルバム「Time」、32歳の時に3rdアルバム「ORIENT」をリリース
- 【画像】佐藤博の若い頃から死去までのアルバムや経歴は?死因は?
- 佐藤博は32歳の時にアメリカに移住
- 佐藤博は33歳の時に「アルファ・レコード」と契約
- 佐藤博は34歳の時にドラムマシン・LINN LM-1の音色を聴いて衝撃を受け帰国を決意していた
- 佐藤博は35歳の時にドラムマシン・LINN LM-1を使用して制作したアルバム「awakening」をリリース
- 佐藤博は60歳~64歳の時にはDREAMS COME TRUE、青山テルマなど音楽監督、編曲、サウンドプロデュースほか
- 佐藤博の死因は?
- 佐藤博のソロアルバム一覧
について、ご紹介しました。
お寺の長男に生まれたことから、幼い頃には釈迦やキリストに憧れるも、やがては、現実社会との矛盾に悩むと、今度は、将来は住職を継がなければならないことに絶望し、
そんな中、ギターとの出会いで音楽に生き甲斐を見出すと、結局、住職を継がなくてよくなり、その後、勧められるままに、ピアノを始めると、今度は、興味のない歌謡曲のバックバンドでの仕事に不満を抱き、それでも・・・
と、しばしば、人生に不満を抱くも、そのまま我慢せず、ことごとく、自身の思うように転換し、最後は、お気に入りの自宅のプライベートスタジオで仕事中に息を引き取った佐藤博さん。
人生はかく生きたいものです。
22歳頃から、大阪でジャズコンボ系のバンドのピアニストとして活動を開始すると、その後、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、山下達郎さんなどの作品の制作に参加し、日本の音楽史において …