お寺の長男に生まれたことで、将来は住職を継ぐしかないと絶望していた中、ギターとの出会いで生きる気力が湧くと、その後、独学でピアノを学び、1970年、23歳頃には、大阪でジャズ・ピアニストとして音楽活動を開始したという、佐藤博(さとう ひろし)さんですが、ジャズ・ピアニストとしての仕事はほとんどなく、歌謡歌手のバックバンドばかり務めていたといいます。
今回は、そんな佐藤博さんの、若い頃(関西時代)の経歴を時系列でご紹介します。
「佐藤博の生い立ちは?実家が寺で将来に絶望もギターに生き甲斐を見出していた!」からの続き
佐藤博は高校卒業後はピアノの練習と多重録音に没頭していた
実家がお寺で、長男だったことから、いずれは住職にならなければならないことに絶望するも、音楽との出会いで生き甲斐を見つけたという佐藤博さんは、
高校卒業後、大学には進学せず、昼はピアノの練習と好きなアーティストのコピー、夜は蔵の中で多重録音に没頭するという生活を送っていたそうで、
両親には、
(大学生と同じ)22歳まで好きにやらせて欲しい
と、お願いしていたそうです。
佐藤博は23歳の時にピアニストとしてプロデビュー
ただ、22歳の頃には、関西で友達がディスコやナイトクラブで演奏しているのを見に行くと、バンドにピアニストがいなかったことから、ギャラはいらないから弾かせてほしいと頼み、ピアノを弾かせてもらうことになったそうで、
その後、周りがジャズ・ミュージシャンばかりだったことから、自身もジャズを弾くようになり、好きなピアニストのコピーをしたり、好きなスタイルで弾いている人をマネて、見よう見まねでジャズ・ピアノを学んでいると、
1年後の、1970年、23歳の時には、(タダ働きから)正式に雇われるようになり、ピアノ・トリオ+トロンボーン、サックスという編成のバンドに入って、ピアニストしてプロデビューしたのだそうです。
ちなみに、関西にいる時は、子供の頃から弾いてきた人と自分の、10~20年という差は埋まらず、落ち込むことばかりで、それを思うと、絶望的な気持ちになったそうですが、
バンドのメンバーには恵まれていたそうで、特に、佐藤博さんより3歳年下のバリバリのジャズ・ベーシスト・高水健司さんには、いろいろと教えてもらったのだそうです。
佐藤博が20代前半の頃は歌謡曲の歌手のバックバンドを務めることが多かった
こうして、実家のお寺の住職を継がなくてよくなった佐藤博さんですが、
(なぜ、実家のお寺の住職を継がなくてよくなったのかは不明です)
ジャズピアノがあまり得意ではなかったせいか、ジャズ以外の仕事が多く、特に、歌謡曲の歌手のバックバンドとして演奏することが多かったそうで、
(当時の歌謡歌手のほとんどのバックバンドを務めたそうです)
お小遣い稼ぎと勉強を兼ねての仕事だと割り切ってやっていたものの、歌謡曲は好きではなく、また、サラリーマン的な生活にも嫌気が差し、だんだん、煮詰まっていったのだそうです。
(佐藤博さんは、もともと、サラリーマン的な生活が嫌だったそうですが、気がつくと、毎晩決まった時間に出勤し、酔っぱらい相手に当たり障りのない演奏をし、休憩し・・・と、時間帯が違うだけで、まるでサラリーマンのような生活になっていたのだそうです)
佐藤博は25歳の時に上田正樹と出会い、ブルース系やフォーク系のミュージシャンと共演するようになっていた
そんな中、1972年、25歳頃、ブルース系のミュージシャンだった上田正樹さんのバックバンドを務めたことで、
ロックをやるヤツでもベンチャーズの真似事やグループ・サウンズみたいなのばかりじゃないんだ
と、衝撃を受けたそうで、
その後も、しばしば、上田正樹さんと共演するほか、上田正樹さんと同じ、ブルース系の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」や、「ザ・ディランII」、加川良さん、西岡たかしさん、「五つの赤い風船」など、フォーク系のミュージシャンのレコーディングにも参加するようになったのだそうです。
佐藤博は27歳の時に鈴木茂にスカウトされて上京
そして、1974年、27歳頃には、石田長生さん、田中章弘さん、林敏明さんと、バンド「THIS」を結成すると、関西で評判となったそうで、
(佐藤博さんはキーボードを担当)
その後、「THIS」として、加川良さんのアルバム「アウト・オブ・マインド」のレコーディングに参加した際、レコーディング・セッションで顔を合わせた、鈴木茂さんにスカウトされたそうで、佐藤博さんは、「THIS」のメンバーと共に上京したのだそうです。
ちなみに、鈴木茂さんは、元「はっぴいえんど」のメンバーで、「はっぴいえんど」が1972年12月末に解散した後、「キャラメル・ママ」(後に「ティン・パン・アレー」に改名)として活動していたのですが、
ファースト・ソロ・アルバム「BAND WAGON」をリリースするにあたり、そのプロモーションのため、ロック専門のミュージシャンとアルバムの曲をライブで再現するべく、メンバーを探していたのでした。
「【画像】佐藤博の若い頃は?細野晴臣や大瀧詠一のアルバム制作にも参加!」に続く
1975年、28歳の時、鈴木茂さんにスカウトされ、「ハックルバック」を結成すると、同年には、細野晴臣さんのスタジオ・アルバム「トロピカル・ダンディー」のレコーディングに参加し、 以降、自身のアルバムをリリースするかたわら …