1975年、28歳の時、鈴木茂さんにスカウトされ、「ハックルバック」を結成すると、同年には、細野晴臣さんのスタジオ・アルバム「トロピカル・ダンディー」のレコーディングに参加し、
以降、自身のアルバムをリリースするかたわら、大瀧詠一さんや吉田美奈子さんのアルバム制作に携わったという、佐藤博(さとう ひろし)さん。
今回は、佐藤博さんの若い頃(上京してから渡米を決意するまで)の活動や経歴を時系列でご紹介します。
「佐藤博の若い頃(関西時代)は?ピアニストデビュー後は歌謡歌手のバックバンド!」からの続き
佐藤博は28歳の時に鈴木茂にスカウトされ「ハックルバック」を結成
鈴木茂さんにスカウトされて、1975年、28歳の時に上京し、鈴木茂さんと「THIS」のメンバー(田中章弘さん、林敏明さん)と共に、「ハックルバック」を結成した佐藤博さんは、
鈴木茂さんのファースト・ソロアルバム「BAND WAGON」のリリースを目前に控えた1975年2月11日、目黒区民センターで開催されたライブでデビューを果たしたそうですが、まだ、実力は伴っていなかったそうで、
鈴木茂さんは、
ハックルバックでは、もう迫力、迫力って、一所懸命やってたのね。どういうのをやりたいかってのはコロコロ変わってたんだけど、とにかく迫力、ね
アメリカでいろんな印象を受けたわけだけど、やっぱり日本とくらべちゃうでしょ。で、いちばん大きく感じたのは迫力不足。いろんな意味でね。それを一所懸命、自分なりに解消しようとしてたんです、あの頃。
だから、ハックルバック作って、最初の2か月くらいはクラウンのスタジオで毎日毎日練習。彼らはもともと大阪でやってた何とかってバンドでね、結構迫力あったの、そのときから。
だけども一緒にやりはじめて、なんかまだダメだな、もっともっと、って。むずかしかったけどね
などと、語っています。
佐藤博が28歳の時に「ハックルバック」が解散
そんな「ハックルバック」は、当初は、”鈴木茂さんのバンド”との印象が強かったそうですが、佐藤博さんたちは、短期間のうちにバンドとしての力を高めたそうで、
徐々に佐藤博さんのオリジナル曲も取り上げられるようになっていったそうですが・・・
あらかじめ予定されていたスケジュール(10数回のライブ)をこなすと、この年(1975年)の11月16日、新宿厚生年金会館で開催されたコンサートを最後に、「ハックルバック」は解散したそうで、
鈴木茂さんは、解散した理由について、
バンドを続ける必要性を感じれば、そうするつもりだったんです。でも「はっぴいえんど」とは違って、誰にもバンドをひとつにまとめようとする気持ちがなかった。それぞれが自分のキャリアのステップとしてしか考えてなくて、終われば自分の世界へ戻るものと思っていました。
互いに自分の主張ばかりで歩み寄りが少ない、みんながそうだったんです。一応は僕と佐藤さんが先導してましたが、彼も気持ちはソロ・デビューへ向かってましたからね。かくいう僕もアレンジ志向が強まってますから、バンドなんて続くはずがなかったんです
と、語っています。
佐藤博は28歳の時に細野晴臣のスタジオアルバム「トロピカル・ダンディー」のレコーディングに参加
その後、佐藤博さんは、1975年には、細野晴臣さんのスタジオアルバム「トロピカル・ダンディー」のレコーディングに参加することになり、
それまで、
一流のミュージシャンというのはいかに譜面が読めて、初見ができて、対応力があるかだ
と、聞かされていたことから、レコーディング前はとても緊張していたそうですが、
(関西時代は、歌伴(歌い手をサポートするために、歌のバックで演奏される伴奏)をする時、バンドマスターに、担当楽器でピアノ・パートを弾いてもらって、それを聴き、本番までに覚える、というやり方をしていたそうです)
「トロピカル・ダンディー」では、レコーディングの当日に、(譜面ではなく)普通の紙にコードだけを書いたものが回ってきて、コード・ネームを見ながら、お互いの演奏を聴いてプレイするだけで、
細野晴臣さんも、ちゃんと、
こういうフレーズを弾いて欲しいんだけど
と、口で伝えてくれたそうで、
佐藤博さんは、譜面ではなかったことに、「助かった」と思うと同時に、「東京でもこういうやり方の人がいるんだ」という仲間意識のようなものが芽生え、「自分にもミュージシャンとして居場所がある」と感じ、嬉しくなったそうで、
そういう意味ではスタジオ・ミュージシャンも、僕らの世代を境に大きく変わったと思うんですよ。それまではクラシックやジャズのミュージシャンがポップスの制作に携わることが多かった。
彼らは譜面での対応力があって、譜面の方も演奏するとおりにきちんと書いてある。でも、僕らはお互いにポップスやロックが好きだから、譜面がなくても”あの曲のあの感じ”と言うだけで分かるんです。
と、語っています。
また、佐藤博さんは、その後、
大瀧詠一さんの「NIAGARA MOON」(1975年5月30日)、
吉田美奈子さんの「MINAKO」(1975年10月25日) のアルバム制作にも参加しています。
「MINAKO」
佐藤博は29歳の時に1stソロアルバム「Super Market」をリリース
そして、1976年、29歳の時には、自身のファーストソロアルバム「Super Market」をリリースしています。
佐藤博は29歳の時に吉田美奈子のスタジオ・アルバム「FLAPPER」で初のサウンドプロデュース
また、同年(1976年)、吉田美奈子さんの通算3枚目のスタジオ・アルバム「FLAPPER」では、初のサウンドプロデュースを手掛けたそうですが、
(この頃はまだ、サウンドプロデュースと言う言葉がなかったそうで、アレンジャー兼プレイヤーとしての参加だったそうです)
レコーディングには、村上”ポンタ”秀一さん、高水健司さん、大村憲司さんといった関西出身のミュージシャンと、細野晴臣さんを中心に、鈴木茂さん、浜口茂外也さん、林立夫さんたち東京のミュージシャンたちの両方と一緒に演奏することができたのだそうです。
(佐藤博さんは、実は、この頃、管楽器や弦楽器の音域を知らなかったそうで、居候させてもらっていた村井さんという人から、毎晩、管弦アレンジの手ほどきを受けていたそうです)
佐藤博は31歳の時に2ndアルバム「Time」、32歳の時に3rdアルバム「ORIENT」をリリース
その後、佐藤博さんは、1978年、31歳の時には、2枚目のアルバム「Time」、1979年には、3枚目のアルバム「ORIENT」をリリースするのですが、音楽的な行き詰まりを感じていたそうで、
細野晴臣さんからは、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」への参加を打診されるも、これを断り、アメリカ行きを決断したそうで、
佐藤博さんは、その時の状況を、
(上京して)2~3年後からどんどん煮詰まり出した。スタジオ・ミュージシャンとしてやる仕事の殆どは
歌謡曲か、歌謡ポップスのようなもので僕はそういうものにはあまり関心が持てなかった。
ギャラはだんだん良くなったけれど、来るのはそんな仕事ばかりで。このまま東京でスタジオ・ミュージシャンとしてやっていくのは耐えられない、というのでアメリカ移住を決めました。
『SUPER MARKET』で海外のミュージシャンと一緒にやって、彼らが普段どういう環境で生活しているか分かってたし。”自分もこういう環境でやりたい”と1979年に移り住みました。
と、語っています。
「【画像】佐藤博の若い頃から死去までのアルバムや経歴は?死因は?」に続く
スタジオ・ミュージシャンとしての仕事が増え、ギャラが上がっていくも、自分が興味を持てない歌謡曲や歌謡ポップスばかりの中、音楽的な行き詰まりを感じて渡米を決意したという、佐藤博(さとう ひろし)さんは、 アメリカ滞在中に、 …