1970年代、「うしろの百太郎」「恐怖新聞」といった心霊・オカルト作品が大ヒットし、独自の世界観で一大ブームを巻き起こした、つのだじろうさん。
そんなつのだじろうさんは、幼い頃から絵を描くことが大好きで、中学2年生の時、漫画家になる決意をすると、たまたま、家の近所の野球グラウンドで草野球をしていた、「冒険ダン吉」の作者・島田啓三さんに、自分の漫画の批評を頼みに行ったといいます。
今回は、つのだじろうさんの小学生時代(生い立ち)から漫画家デビュー直前(高校時代)までをご紹介します。
つのだじろうのプロフィール
つのだじろうさんは、1936年7月3日生まれ、
東京府東京市下谷区豊住町(現・東京都台東区下谷1丁目)の出身、
血液型はО型、
学歴は、
近津中学校
⇒新宿区立淀橋中学校(現:新宿区立西新宿中学校)
⇒東京都立青山高等学校卒業
趣味は、将棋(アマ四段)、スキー(1級)、書道(三段)、催眠術、空手、剣道、浮世絵春画収集、
(2007年には、趣味で集めていた浮世絵の解説本「つのだじろうの浮世絵春画ばなし」を発表しています)
ちなみに、本名は、「角田次朗」(読み方同じ)で、
次弟は、リュート奏者のつのだたかしさん、
末弟は、ミュージシャンのつのだ☆ひろさんです。
つのだじろうは小学生の時には成績優秀で常に1~2位だった
つのだじろうさんは、床屋を営むお父さんのもと、8人きょうだいの次男として誕生すると、
小学2年生の時の時には、戦時中だったことから、空襲を避けるため、家族で福島県東白川郡に疎開したそうですが、
小学校3年生の時には、住んでいた福島県東白川郡塙町台宿から棚倉町近津(現在の寺山)にある小学校まで、片道6キロもの距離を歩いて通ったそうです。
(小学校時代、つのだじろうさんは、学年での成績は常に1~2位と成績優秀だったそうです)
つのだじろうは幼い頃から絵を描くことが大好きだった
また、つのだじろうさんは、幼い頃から絵を描くことが大好きで、(疎開先の)近津中学校では美術部に所属していたそうですが、白川郡主催のポスター展で入賞したこともあったそうです。
ちなみに、つのだじろうさんは、終戦後、中学2年生の時、東京に戻る際には、近津中学校の美術部の顧問・宮根先生に、
平凡なことをしていては平凡な人間にしかなれない、非凡に!、非凡に!
と、アドバイスをもらっていたといいます。
つのだじろうは中学生の時に草野球中の漫画家・島田啓三に自身の漫画を見るよう頼んでいた
そんなつのだじろうさんは、小学校3~4年生の時から、漫画家になりたいと思うようになり、中学2年生の時、本気で漫画家になろうと決意したそうですが、
そんな中、新宿の家の近くの野球グラウンドで、講談社の球団の試合があると聞き、見に行くと、その監督が「冒険ダン吉」という漫画を描いた島田啓三さんだと知り、
自分の描いた漫画を見てもらおうと、なんと、野球の試合中に、ダッグアウトまで入り込んで、これまで描き溜めた漫画を全部持って行き、
漫画を見てくれ
と、言うと、
島田啓三さんには、
君、そういう用事なら家の方に来るべきだ
と、怒られたそうですが、
つのだじろうさんは、この言葉を、「家へ行っていいんだ」と、自分勝手に都合よく解釈したのだそうです。
つのだじろうは中学生の時に島田啓三に4コマ漫画を描くようにアドバイスされていた
こうして、その後、つのだじろうさんは、島田啓三さんの家を訪ね、自身の描いた漫画を見てもらうと、
島田啓三さんに、
その絵では話にならないからデッサンをしなさい
毎日1個ずつ4コマ漫画を描き、持ってくるなら月に1度見てやる
と、言われたそうで、
このことがきっかけとなり、島田啓三さんの家に通うこと(弟子入り)になったそうで、
つのだじろうさんは、
だけど、4コマ漫画ってのは難しい。簡単に描けるものじゃなかったよ。それに、当時は手塚治虫先生が『ジャングル大帝』とかを描いていた時代で、自分も長いものが描きたかったから3、4ページぐらいの長いものも描いて、それを十数枚の4コマ漫画の下に忍び込ませて持って行った。
だけど、先生は4コマ漫画は読んでくれたが長いものは読まずにパーンってぶん投げられてね(笑)。
4コマ漫画のほうも、デッサンができていないとか右手と左手の長さが違うとか色々言われてさ。捨てられた長い漫画を自分で拾ってトボトボと帰るような、中学校から高校までそういう日々だった。
と、語っています。
つのだじろうは高校生の時に「漫画少年」の編集長に紹介状を書いてもらうも漫画は掲載されなかった
そんな中、つのだじろうさんが高校生のある日のこと、お酒を飲んで気を良くしていた島田啓三さんが、たまたま、つのだじろうさんの4ページの漫画を見て、
無駄なコマが多い。いらないページを描き直して3ページにしてみろ。それで合格点があげられるようなら「漫画少年」(学童社の漫画誌)を紹介する
と、言ったそうで、
それからというもの、つのだじろうさんは、描いては直し、描いては直し、という作業を繰り返したそうですが、
1年程経った頃、島田啓三さんに、
今の君の力じゃこれが精一杯なのかなぁ
と、諦めたように言われたのだそうです。
それでも、島田啓三さんは、「漫画少年」の編集長へ紹介状を書いてくれたそうで、
つのだじろうさんは、
島田先生の紹介状があれば連載させてもらえるのでは?
と、思い込んでいたそうですが・・・
現実はそう甘くはなく、毎月、「漫画少年」を隅から隅まで見ても、(投稿した)自分の作品はどこにも掲載されていなかったのだそうです。
「【画像】つのだじろうの若い頃は?代表作(漫画)は?現在は引退?」に続く
1955年、18歳の時、「新・桃太郎」で漫画家デビューすると、少年・少女向けの漫画を描きつつ、オカルトや超常現象をテーマにした作品で注目を集め、1970年代には「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」などが大ヒットした、つのだじ …