石ノ森章太郎さんのアシスタントを経て、1967年、22歳の時、「目明しポリ吉」で漫画家デビューすると、以降、ナンセンスなギャグ漫画から、シリアス、コメディ、SFまで、幅広いジャンルの漫画作品を数多く発表し、人気漫画家の地位を確立した、永井豪(ながい ごう)さん。
今回は、永井豪さんの凄まじい下積時代(石ノ森章太郎さんのアシスタント時代)についてご紹介します。

「永井豪の生い立ちは?幼少期に手塚治虫に衝撃!予備校を辞め漫画家を志していた!」からの続き
永井豪は21歳頃に手塚治虫に漫画を見てもらおうと訪ねるも会えなかった
漫画家になることを決意し、予備校を途中で辞めたという永井豪さんは、その後、1年半、出版社へ原稿を持ち込み続けたそうですが、掲載には至らなかったそうで、
デビューするためには、誰か有名な漫画家の先生のアシスタントになるしかないと思うようになり、知り合いの編集者に、
作品を見てもらいたいので、誰か漫画家の先生を紹介してほしい
と、頼むと、
誰がいいかと聞かれたことから、迷うことなく、子供の頃から憧れていた手塚治虫さんの名前を挙げたそうです。
こうして、永井豪さんは、自分の原稿を抱えて、手塚治虫さんの「手塚プロダクション」を訪ねたそうですが・・・
手塚治虫さんは不在で会えず、落胆して、「手塚プロダクション」を後にしたのだそうです。
永井豪は21歳頃に石ノ森章太郎に漫画を見てもらっていた
その後、ある日のこと、弟の友達で、永井豪さんと同じように漫画家を目指している人と会い、
(その人は、永井豪さん以上に、自分の作品をあちこちに見せて回っていたそうです)
石森章太郎先生は作品を熱心に見てくれるから、一緒に行かない?
と、誘われ、その人と一緒に石ノ森章太郎さんの所に行くと、
(石ノ森章太郎さんは、1984年まで、石森章太郎と名乗っていました)
石ノ森章太郎さんは、待ち合わせの喫茶店で、永井豪さんたちが来るのを待っていてくれたそうで、永井豪さんが持っていった作品をちゃんと読んでくれたうえ、
うーん、すげえなあ
と、誉めてくれたそうですが、
その時、永井豪さんは、
また新しい作品を描いたら、見てもらおうかなあ
というくらいの気持ちだったそうです。
永井豪は21歳頃に石ノ森章太郎のアシスタントになっていた
そんな中、その後、石ノ森章太郎さんから、
今ピンチなんだ!
原稿の締め切りに間に合わないから手伝いに来てほしい
と、自宅に電話がかかってきたそうで、
永井豪さんは、プロの漫画の背景を描くことに緊張しながらも、真剣に作品を見てくれた石ノ森章太郎さんの依頼に応じ、すぐに仕事場へ行って、「さるとびエッちゃん」の背景を描いたそうですが、
これをきっかけに、石ノ森章太郎さんに頼りにされるようになったそうで、
はじめは、アルバイト(すき焼き屋)のない日だけ手伝っていたそうですが、
やがて、石ノ森章太郎さんから、
全面的にアシスタントをしてほしい
と、頼まれるようになったそうで、
給料は、すき焼き屋のアルバイトよりも安かったものの、漫画家を目指していた永井豪さんは、石ノ森章太郎さんのアシスタントに専念することを決意したのだそうです。
(自ら望んだというより、半ば強引にアシスタントになったという感じだったそうです)
永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントを始めた当初は楽しく働いていたが・・・
ちなみに、仕事場は、永井豪さんより一つ年上の野口竜さんと、年下の2人のアシスタントの3人で、
全員が若く、石ノ森章太郎さんと別の場所で作業していたため、仕事場の雰囲気は和やかで、皆で漫画や映画の話をしながら楽しく働いていたそうですが・・・
(「石森章太郎プロ」のアシスタントたちは、永井豪さんがアシスタントになる前から、石ノ森章太郎さんとは別のアパートで仕事をしていたそうです)
永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントになって3ヶ月後、職場環境が激変していた
しかし、永井豪さんがアシスタントとして働き始めて3ヶ月後、
石ノ森章太郎さんが、ある編集者から、
背景の絵がバラバラなので、もっとアシスタントを監督しないとイカンのではないか
と、指摘され、
以降、石ノ森章太郎さんがアシスタントと同じ部屋で仕事をするように方針を変えると、それまで和やかだった雰囲気は一変。
しーんとした中で、カリカリとペンを動かすだけの、厳しい職場環境になったのだそうです。
さらに、この頃から、石ノ森章太郎さんの仕事が激増し、アシスタントたちは猛烈な忙しさに見舞われたうえ、給料は安いままだったため、
(13社の編集者が仕事場に並んで原稿を待つような過酷な状況が続いたそうです)
アシスタントたちは、耐え難い仕事場の雰囲気と相まって、不満を募らせたそうで、やがては、このような状況に嫌気が差し、永井豪さん以外のアシスタントは全員辞めてしまったのだそうです。
永井豪が石ノ森章太郎のアシスタントを1人になっても続けた理由とは
それでも、永井豪さんは、
- まだ自分の覚えたいことが全部できていなかった
- 野口竜さんのようにどんな絵でも描けるようになりたかった
- 石ノ森章太郎さんのテクニックを学びたかった
という強い気持ちから、
仕事量が何倍にもなることは覚悟の上で、実力を磨く絶好の機会だと考え、辞めなかったそうですが、
石ノ森章太郎さんの仕事量は、減るどころか増える一方だったそうで、永井豪さんが、編集者との電話応対や仕事の進行管理を行い、無理な依頼を断ろうとしても、石ノ森章太郎さんが、それを察知して引き受けてしまったといいます。
こうして、永井豪さんは、新しいアシスタントが来るまでの間、たった1人で、石ノ森章太郎さんのアシスタントを務めたのだそうです。
(「石森章太郎プロ」に入って、わずか数ヶ月後の出来事だったそうです)
永井豪は過酷な1人アシスタント時代を様々な工夫で乗り切っていた
そんな永井豪さんは、1人でアシスタントをこなすため、様々な工夫を凝らしたそうで、
編集者に、自分(編集者)の担当作品を手伝ってもらうよう徹底し、さらには、家に原稿を持ち帰って、弟にも手伝わせるなど、あらゆる手を尽くしたそうですが、休みは、月に1~2日しかなかったといいます。
そんな中、女性のアシスタントが1人入ってきたそうですが・・・
ベタ塗りや仕上げしかできず、結局ほ、ほとんどの背景を永井豪さんが描いていたそうで、
ようやく、石ノ森章太郎さんも仕事を減らしたそうですが、それでも、月に150〜200ページという膨大な量の原稿をこなしていたのだそうです。
永井豪はアシスタントが増えた後も多忙を極めていた
そして、やがて、新しいアシスタントが2人増えたそうですが、石ノ森章太郎さんはまた仕事を増やし始めたそうで、学習雑誌から宗教団体の雑誌まで、あらゆるジャンルの依頼を引き受けたことから、永井豪さんの仕事はさらに多忙を極めたそうで、
締め切りが集中する月の後半の2週間ほどは、睡眠時間が2〜3時間という状態が続き、あまりの忙しさに、永井豪さんは、一時的に、元アシスタントの野口竜さんにも手伝ってもらったのだそうです。
永井豪のアシスタント時代は食事や風呂の時間もほとんどなく体重も激減していた
ちなみに、この時期、永井豪さんは、1日に64ページも描いたことがあったほか、疲労のあまり、トイレで居眠りして編集者に起こされたこともあったそうですが、食事や風呂の時間もほとんどなく、体重も激減したそうで、
鏡に映る自分の顔は、目が落ちくぼみ、ぎょろぎょろした鬼のような形相になっていたといいます。
それでも、永井豪さんは、石ノ森章太郎さんのアシスタントを辞めなかったそうですが、
永井豪さんは、
石森先生のアシスタント時代は、こんな風にとんでもない目にあった話が多いのだけれど、何しろ事実なんだからしようがない。
でも、一方で僕はこのアシスタント時代に、将来マンガ家になる上で重要なことをたくさん学んだ。その話はきっと、マンガ家を目指す人たちにとって、参考になるに違いない。
とにかく僕は、がむしゃらに描き続ける石森先生を見ながら、がむしゃらに先生の全てを盗もうとしていたのだ。
と、語っています。
永井豪は石ノ森章太郎に対し仕事への執念を感じていた
ところで、永井豪さんは、なぜ、石ノ森章太郎さんがこれほどまでに仕事を断らないのか不思議に思い、野口竜さんに尋ねたことがあったそうですが、
石ノ森章太郎さんは、以前、世界旅行に出かける際に連載をすべて途中で終了させ、出版社から”干される”(仕事をもらえなくなる)状態を経験し、
(この時、石ノ森章太郎さんは漫画家を続ける自信を失っていたそうです)
その後、1人でアニメ制作をしたり、仲間とアニメ会社を立ち上げ、徐々に漫画界に復帰していたそうで、
そんな経験から、どんな小さな仕事でも引き受けるという、がむしゃらな執念が生まれたのだろうと、永井豪さんは思っているそうです。
「【画像】永井豪は若い頃(デビュー直後)赤塚不二夫に連載を打ち切られていた?」に続く
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