「若い頃」タグの記事一覧(21 / 167Page)

田淵幸一は東京六大学野球で通算22本塁打の新記録を達成していた!

1965年春、慶應戦で東京六大学野球リーグ第1号を放つと、その後も、安定したバッティングでホームランを量産した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、結局、大学4年間で22本塁打を放ち、それまでの東京六大学野球リーグ記録だった通算8本塁打を大EEE

田淵幸一はアジア大会日本代表に1年生で唯一選ばれていた!

高校時代の恩師である松永監督が法政大でも監督だったことから、1年生にもかかわらず、すぐにユニフォームを着させてもらうほか、エリートしか入れない合宿所(寮)にも入れてもらったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、当初は周囲に「監督のコネEEE

田淵幸一は法政大では1年生ながら特別待遇を受けていた!

高校1年生の時、球拾いが嫌でブルペン捕手に志願すると、やがて、松永怜一監督から本格的に捕手をするように言われ、マンツーマンの特訓を受けたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、高校卒業後、法政大学に進学すると、ちょうど松永監督も、法EEE

田淵幸一は高1の時に野球部を1週間で退部していた!

甲子園に憧れて、法政一高に進学し、野球部に入部した、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、五厘刈りにしなくてはならないことや、1年生は声出しと球拾いしかさせてもらえなかったことから、1週間で退部したといいます。

田淵幸一は中3の時ご褒美のカツ丼につられ逆転満塁本塁打を打っていた!

小学3年生の時、日米野球を生で観て野球にハマると、小学5年生の時には、「目白コンドルス」という軟式野球チームに入った、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、中学入学後も野球部に入ると、弱小チームだったため、すぐ試合に出れたそうで、ご褒美のカツEEE

江夏豊は「21球」の直前に味方ベンチにブチ切れしかけていた!

広島移籍2年目の1979年、プロ13年目にして初の優勝を経験した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、日本シリーズでは、あの伝説の「21球」で、見事、広島を日本一に導きます。今回は、この「21球」と、その直前の出来事をご紹介します。

江夏豊は広島カープでプロ13年目にして初の優勝を経験していた!

1978年、移籍した広島では、古葉竹識監督が選手を大人扱いしてくれたことで、十分に肩を休めることができたほか、調整がうまくいき、ボールの勢いが復活したという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、この年、5勝4敗12セーブを挙げると、翌年1979EEE

江夏豊は南海でリリーフ転向後いきなりセーブ王を獲得していた!

野村克也監督から「革命を起こさないか」と、リリーフ転向を勧められ、リリーフに転向した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、当初は、周囲の理解のない中、毎日ベンチ入りするための調整方法に苦労するも、やがては自分なりの調整方法を見つけ、パ・リーグ最EEE

江夏豊は野村克也からの「革命」という言葉でリリーフに転向していた!

南海ホークス移籍1年目の1976年、痛めていた肩と肘の影響で成績がパッとしなかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうですが、なかなか納得いかず、1ヶ月ほどはリリーフをやるやEEE

江夏豊は野村克也監督からリリーフ転向を打診されるも拒否していた!

1975年のシーズン終了後、いつまで経っても阪神球団から契約交渉の連絡が入らない中、週刊誌にトレード話を報道され、引退を考えるようになるも、(トレード先だと噂されていた)南海の野村克也監督から会食に誘われ、その会食中に野村監督に惹かれて、南EEE

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