松本清張は朝日新聞社の広告部員だった!ほうき売りのバイトも!

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戦後、日本を代表する作家になられ、現在でも数多くのファンを持つ、社会派推理作家の松本清張(まつもと せいちょう)さん。作家としてデビューされる前は、石版印刷の職人として、広告のデザインを手がけられたり、朝日新聞社の広告部員として働かれていましたが、戦争で仕事がなくなり、苦しい生活を強いられたそうです。




「貧しい幼少期~石版印刷の見習い工~」の続き

一人前の職人に~印刷所を退職


そして、1931年には、
勤めていた印刷所が倒産してしまい、
もともといた「高崎印刷所」に戻られると、

すぐに、「嶋井精華堂印刷所」に、
半年間、見習いに出されたそうで、

その後、「嶋井精華堂印刷所」で学んだ、
広告図案の技術が重要視されるようになり、仕事に活かされると、
ようやく、一人前の職人と認められようになったそうで、

生活も安定し、1936年、
松本さんは結婚。


高崎印刷所時代の松本さん(1936年)

しかし、今度は、「高崎印刷所」の主人が、
亡くなってしまい、経営が悪化。

松本さんは、しばらくの間、印刷所勤めの傍ら、
自宅で版画描きのアルバイトをされますが、

将来に不安を感じ、1937年2月、
「高崎印刷所」を退職されています。


版下画工として自営


その後、自営を始められた松本さんは、

朝日新聞西部支社(現在の西部本社)が、
移転してきたことに伴い、

「最新設備による印刷を開始する」

という内容の社告を見て、
版下の需要が増えると直感。

すぐに、支社長の原田棟一郎さんに、
版下画工として使ってほしいと手紙を書き送り、
下請契約を得ることに成功したそうです。

朝日新聞社に就職


そして、どのような経緯かは、
分かりませんでしたが、

松本さんは、朝日新聞社の嘱託職員を経て、
1943年には、朝日新聞社の、
「広告部意匠係」の正社員に昇格。

ただ、生活の安定は得たものの、
独創性を必要とされない仕事内容や、
学歴重視で実力を評価されない職場環境に、

次第に、虚しさを感じる日々を、
過ごすようになったそうで、

松本さんは、図案家の仲間たちとともに、
年に一回、ポスターの展示会を開いたり、
東京から有名デザイナーを呼んで審査してもらったり、

北九州の遺跡巡りが好きだったことから、
休日に各地の遺跡を訪ねることに、
楽しみを見出されたのだそうです。


戦後、再び苦しい生活へ


その後、戦争が始まり、
松本さんは衛生兵として医務室勤務となるのですが、


教育召集時(陸軍衛生二等兵)の松本さん(1943年)

戦争が終わり、「朝日新聞社」に復職すると、
当時の新聞は、タブロイド版1枚、広告は活字の案内広告だけで、
事実上、松本さんの仕事はなくなってしまいます。

そこで、松本さんは、休日を利用し、
藁箒(わらぼうき)の仲買のアルバイトを始められると、

当初は、北九州だけだったものが、
次第に、広島、関西にまで売り歩かれるように。

(空いた時間を使って、京都、奈良、飛鳥の、
 古い社寺巡りもされていたそうです♪)

ただ、この仕事も、1948年頃になると、
正規の藁箒問屋が復活したことで成り立たなくなり、

今度は、印刷屋の版画下描きや、
商店街のショーウィンドーの飾り付けのアルバイト、

また、観光ポスターコンクールなどに応募され、
生計を立てていかれたのでした。

「ついに作家へ~」に続く



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