1983年、ファーストシングル「♂×♀×Kiss(オス・メス・キス)」でアイドル歌手としてデビューされた、タレントの松本明子(まつもと あきこ)さん。アイドルとしては大成しませんでしたが、その後、タレントに転身されると、明るく親しみやすいキャラクターでお茶の間の人気者となりました。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

松本さんは、1966年4月8日生まれ、
香川県高松市のご出身、

身長152センチ、

血液型はA型、

本名は、
平井明子(ひらい あきこ)、

学歴は、
高松市立屋島中学校
⇒堀越高等学校卒業

趣味は、
映画観賞、茶道、写真、
散歩、ゴルフ、ドライブ、

特技は、ピアノ、

だそうです♪

有名人だった子ども時代

松本さんは、子どもの頃から、
歌を歌うことが好きで、

お父さんに、たびたびスナックに連れて行ってもらい、
フィンガー5や山口百恵さんの歌を歌っては、
拍手喝采を浴びられていたのだとか。

(ちなみに、松本さんは、カルピスを、
 ボトルキープされていたそうです♪)

また、松本さんは、
のど自慢大会の常連でもあったそうで、

地元では、歌がうまい子どもとして、
サインをねだられることもあったほど、
有名人だったそうです。

芸能界入り

そんな松本さんは、中学卒業後の1982年、
アイドル歌手を目指し上京されると、

オーディション番組「スター誕生!」の、
第44回決勝大会で、見事合格。
芸能界に入られています。

ちなみに、この大会には、
故・本田美奈子さんと徳永英明さんも、
出場されていたそうですが、
お二人は、ともに失格となっています。

アイドル歌手としてデビューするも・・・

そして、翌年の1983年には、
男性向け週刊誌「平凡パンチ」で、
グラビアアイドルとしてデビューされ、

ファーストシングル
「♂×♀×Kiss(オス・メス・キス)」で、
アイドル歌手としてもデビュー。

「♂×♀×Kiss(オス・メス・キス)」

松本さんは、当時、すでに人気歌手だった、
同じ事務所のアンルイスさんをモデルとして、
事務所から猛プッシュされるのですが、

オリコン週間チャートは最高位31位と、
ヒットには結びつかず、
その後、発売されたシングルも、
鳴かず飛ばずで終わってしまったのでした。

松本さんは、当時を振り返り、

人気が出ないし、曲も売れないし・・・困ったもんだよ。
デパートの屋上で新曲発表やる時も、
他の事務所から親衛隊借りていたよ。

と、明かされていました。

また、松本さんは、その頃、
堀越高校に通われていたのですが、

当時のお給料だけでは、
学費が捻出できず、

デビュー後にもかかわらず、
スーパーでアルバイトをされていたのだとか。

ちなみに、松本さんは、
堀越高校を3年間無欠席で卒業し、
皆勤賞を受けられたそうですが、

それほど、仕事がない状態だった、
とも言えますね・・・

放送禁止用語を発言

ところで、松本さんは、1984年、
「オールナイトフジ」1周年記念と、
「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」10周年記念の、

共同スペシャル番組のサイマル放送
(テレビとラジオ番組の同時放送)
に出演されているのですが、

片岡鶴太郎さんと笑福亭鶴光さんから、

「お前のボーイフレンド、俺知っているんだよ」

と、突然切り出されます。

その彼は、当時アイドルで、
バイセクシャルと有名だったことから、

お二人はそれを面白がり、

付き合っている男の名前をバラされたくなかったら、
カメラに向かって「お○○こ」と言ってこい。

この言葉を大声でいったらスターになれる。

などと、そそのかすと、

なんと、松本さんは、生放送中にもかかわらず、
本当に、カメラの真正面で、
女性器を指すこの言葉を叫ばれたというのです!
(当然、この言葉は放送禁止用語です♪)

松本さんと笑福亭鶴光さん。

すると、松本さんは、警備員数名に抱えられ、
有無を言わさずスタジオから退出させられ、
タクシーに乗せられ、寮に戻されてしまったのでした。

そして、この騒動の翌日から、
謹慎処分を受けると、仕事も激減。
松本さんは、活動停止へと、
追い込まれてしまったのでした。

ちなみに、香川県出身の松本さんは、
当時、その言葉の意味を、
知らずに言ってしまったそうで、

後に、この出来事を振り返り、

私は四国の方で生まれ育ったので、
知らない言葉だった。
口にすること自体に抵抗は無かったですね。

と、明かされています。

どん底からバラエティに転身

それから、松本さんは、
ほとんど仕事がない状態が2年ほど続き、

その間、一日中、国立駅のベンチで、
過ごす日々を送られていたそうですが、

そんな中、お笑いコンビ「ABブラザーズ」で、
ブレイクされた中山秀征さんから、

ネエさん、よかったら、俺もいるし、
バラエティー班に来ませんか?

と、声をかけられたことで、
バラエティに転身。

中山さんは、この松本さんの、
一連の事件を目撃されており、
ずっと気にかけられていたそうで、

松本さんのタレントとしての、
素質を見抜かれていたのかもしれませんね。

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バラドルとして

それからというもの、松本さんは、
会議室で、「発声練習」や「コントの練習」、
「1週間あったことをみんなの前で楽しく話す」、
などの稽古を積まれると、

1989年には、ラジオ番組
「文夫と明子のラジオビバリー昼ズ」でMCを務められ、
バラエティで再起を図られます。

すると、少しずつ仕事が増え始め、

1991年には、「DAISUKI!」
1992年には、「電波少年」シリーズ、
        「TVチャンピオン」

「DAISUKI!」より。中山秀征さん、松本さん、飯島直子さん。

などに出演し、
タレントとしての才能を開花。

それまでになかった、新しいジャンル、
「バラドル」の第一人者となり、

以降、バラエティをはじめ、
テレビドラマ、映画、舞台と、
幅広い分野で活動していかれたのでした。

ちなみに、松本さんは、
窮地を救ってくれた中山さんに対する思いを、

いつも気にかけて心配してくれているので、
私が死ぬまでいい仕事をして、それを見てもらう。
それが、一生かけての、死ぬまでの恩返しですね。

と、明かされていましたが、

現在も、明るく元気なキャラで、
お仕事に邁進されているのは、
こういう思いも胸に秘められているのですね。

これからも、独特のキャラで、
末永く活躍して欲しいですね。

応援しています!!

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