「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパで上京し、バー「ジャックの豆の木」で常連客のリクエストに応じて即興芸を次々と披露すると、常連客を熱狂の渦に巻き込んだタモリさんは、以降、福岡で生活しつつ、1ヶ月に1回カンパの資金で上京し、即興芸を披露するということを続けたそうですが、1975年の夏、漫画家・赤塚不二夫さんと出会います。

「タモリは即興芸で熱狂させ東京に招待されていた!」からの続き

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タモリと赤塚不二夫との出会い

タモリさんは、上京した当初は、サックス奏者・中村誠一さんの2DKの都営住宅に居候するも、タモリさんのお母さんから電話がかかってきた時に中村さんが取ったことで、中村さん宅で居候していることがお母さんにバレ、潔癖症だったお母さんがタモリさんが自分の見知らぬ男と一緒に住むことに反対したことから、その後は、知人の家を転々としていたそうですが、

そんな中、1975年の夏、タモリさんがいつものように、バー「ジャックの豆の木」で即興芸を披露していると、漫画家の赤塚不二夫さんが見に来ている事に気づいたそうで、

赤塚さんといえば、当時すでに、ギャグ漫画家として人気を博し、タモリさんも大学生の時、赤塚さんの「天才バカボン」を読んで、

こんなバカなことやっていいんだ、こんなバカなこと書いて出版していいんだ、ありなんだ

と、衝撃を受け、以来、赤塚作品の大ファンだったことから、ひどく驚いたそうですが、

即興芸が終わると、赤塚さんから、

君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから私のマンションにいろ。

と、声をかけられたのだそうです。

(赤塚さんは、タモリさんの芸に驚き、「こいつは絶対に九州に帰してはいけない」と思われたそうです)

タモリは赤塚不二夫の高級マンションで贅沢三昧の一人暮らしをしていた

ただ、タモリさんはというと、福岡に帰りたかったため、はじめは断っていたそうですが、それでも、赤塚さんから、タモリさんの芸をもっと見たいと熱心に引き止められたそうで、

赤塚さんが当時住んでいた冷暖房完備の4LDKの高級マンション(当時でも家賃17万円もしたそうです)に住まわせてもらい、

ベンツのスポーツタイプ(450SLC)は乗り放題、洋服も着放題、ハイネケンのビールは何ダースも調達してもらい、さらには、月3万円近く(現在の20~30万円ほど)のお小遣いまでもらい、

毎晩のように友人を呼んでは宴会を開き、冬は使っていない部屋も暖房をつけっぱなしにし、暑くなっても暖房を消さず、逆に冷房を入れるなど、贅沢三昧の生活を送ったのだそうです。

(ちなみに、赤塚さんは、たまに、タモリさんに住まわせている自分の部屋に洋服などを取りに行っても、本来、家の主人であるにもかかわらず、タモリさんに「持って行っていいか?」と、いちいちお伺いを立てるほど遠慮されていたのそうです。)

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タモリに贅沢三昧させていた赤塚不二夫自身はロッカーをベッド代わりにして寝ていた

そんなありえないほど贅沢三昧の生活とはいえ、タモリさんは、

あの赤塚不二夫だから、別に住むところがあるのだろう

と、思い込み、遠慮なく堂々と続けていたそうですが、

半年ほど経った頃、実は、赤塚さんが下落合にある仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝る場所を確保していたことを知ったそうです。

それでも、タモリさんは、

代わりましょうか

とは言わず、これまで通りの生活を続けていたそうですが、

その理由を、タモリさんは後に赤塚さんの自伝「赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ」の中のインタビューで、

俺は目白のマンションに一人で居候させてもらってたんだけども、この人(赤塚不二夫さん)は他にもマンションを持ってる大金持ちだと思ってたんだよね。

だけど、他のマンションなんかなくて、帰るところがないから、事務所のロッカーを倒してベッド代わりにして寝てたんだよ。

そのことに気づいたときはグッと込み上げるものがあったんだけど、ここでグッときたら居候道に反すると思って堪えましたね。

と、語っておられます。


赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ

そして、赤塚さんもそんなタモリさんのことを、

あれがなかったら、今のタモリはないんだよ。普通にペコペコするような奴だったら、こうはなってなかった

と、よく語っておられたのだそうです。

「タモリは無名時代から「徹子の部屋」に呼ばれていた!」に続く

タモリさんと赤塚不二夫さん♪

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