長期のロケで多額の借金を抱えてしまい、1970年代はテレビドキュメンタリーで食いつながれた、今村昌平(いまむら しょうへい)さんですが、1979年、9年ぶりに発表した劇場映画「復讐するは我にあり」は大ヒットを記録。その後、次作の「ええじゃないか」が大コケするも、1983年「楢山節考(ならやまぶしこう)」、1997年「うなぎ」と、二度も、カンヌ国際映画祭のグランプリ(パルムドール)を受賞されています。
「にっぽん戦後史」「からゆきさん」などドキュメンタリーを制作
1968年の映画「神々の深き欲望」では、
高い評価を得た今村さんですが、
この撮影では、多額の借金を抱えて資金難となり、
しばらくの間、劇場版映画を撮れない状況になってしまい、
(また、「神々の深き欲望」の過酷な撮影により、主演の三國連太郎さんが、
俳優組合を作られたそうで、このことで今村さんは苦しめられ、
俳優不信に陥ったのも原因と言われています)
その間、テレビドキュメンタリーを制作して、
食いつながれたそうで、
1970年には、横須賀で外国人バーを営む、
マダムの半生を日本の戦後史に重ねる「にっぽん戦後史」、
1971年には、元日本兵を探すため東南アジアに渡り撮影に臨んだ、
「未帰還兵を追って マレー編」
「未帰還兵を追って 第二部 タイ篇」
「無法松故郷に帰る」(1973年)
「未帰還兵を追って」の撮影中より。右端が今村さん。
1972年には、フィリピンの海賊を取材した映像に、
俳優がアテレコをした「ブブアンの海賊」、
1973年には、明治、大正時代に、
「仕事がある」と騙されて東南アジアに連れて行かれ、
強制的に売春に従事させられた女性たちのインタビューをもとに、
彼女たちの変遷を追った「からゆきさん」を制作されています。
「からゆきさん」より。右が今村さん。
(また、この頃、香港で映画「風流女福星」を制作し、
現地で公開されますが、ヒットには結びつかなかったようです。)
「復讐するは我にあり」の大ヒットでカムバック
そして、1975年には、
横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)を開校し、
校長兼理事長を務められるのですが、
当初は順調だった経営も、
1977年頃から生徒が激減。
ただ、資金調達に苦労しながらも、
1979年、実に9年ぶりとなる劇場映画、
「復讐するは我にあり」が公開されると、
映画は大ヒットを記録し、同年の各映画賞を総なめに。
今村さんは、この作品により、ようやく第一線に復帰し、
借金を返済することができたのでした。
「復讐するは我にあり」より。
緒形拳さん(左)と小川真由美さん。
「ええじゃないか」が大コケ
この勢い乗った今村さんは、1981年には、
幕末期の日本に突然湧き上がった大衆騒動を描いた、
「ええじゃないか」を発表されるのですが、
(10年も温めていた企画だったそうです。)
公称5億円の制作費が投入された、
超大作だったにもかかわらず、映画は大コケ。
今村さんご自身も認める、失敗作となってしまいます。
(ちなみに、この映画では史実の矛盾をなくすため、今村さんの脚本を、
近代史に詳しい戯曲家の宮本研さんに直してもらっており、
それで脚本が面白くなくなったことが、失敗理由といわれています)
「ええじゃないか」より。桃井かおりさん(左)と泉谷しげるさん。
「楢山節考」でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞
それでも今村さんはめげずに、1983年、
貧しい農村の因習に従い、年老いた母親を背負って、
真冬の「楢山(ならやま)」に捨てに行く息子の姿を通し、
自然淘汰の意味を描いた短編映画「楢山節考(ならやまぶしこう)」
を発表されると、
「カンヌ国際映画祭」に出品され、
グランプリ(パルムドール)を受賞。
ただ、今村さんは、前評判の高かった、
大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が、
受賞すると思い込んでいたことや、
姥(うば)捨て山について、外国人が理解できるはずがない、
と思い込んでいたことから、映画祭を欠席し、
東京で麻雀を楽しまれていたそうで、
賞を受賞したことに関しても、
特に感動はなかったそうです(笑)。
「楢山節考」より。緒形拳さん(左)と坂本スミ子さん。
「うなぎ」で2回目のパルムドール受賞
その後、今村さんは、
1987年「女衒 ZEGEN」
1989年「黒い雨」
と発表されるのですが、ヒットとはならず、
以降、再び、沈黙期間が続いていたのですが、
1997年、7年ぶりとなる、映画「うなぎ」を発表されると、
再び「カンヌ国際映画祭」でパルムドールを受賞。
日本人で初めて同賞を2回受賞するという、
快挙を成し遂げられています。
(その後は、1998年「カンゾー先生」
2001年「赤い橋の下のぬるい水」と発表されています。)
死因は?
そんな今村さんも、2005年6月に、
「結腸がん」の手術を受けられ、
退院後は自宅療養されていたのですが、
2006年4月中旬に病状が悪化し、
再び入院されると、
2006年5月、「転移性肝腫瘍」のため、
79歳で他界されたのでした。
さて、いかがでしたでしょうか?
1966年に日活を退社し、独立されてからは、
映画制作のため、自宅を担保に入れてまで、
資金を捻出された今村さん。
その作品の数々は、日本人の本質を赤裸々に描かれていたのですが、
日本での評価が低かったのに対し、意外にも、フランスでの人気は高く、
今村さんが他界されたときは、各メディアがトップ級で報じたうえ、
フランスのジャック・シラク大統領が哀悼の意を表明し、
芸術分野で功績のあった人に贈られる、
芸術文化勲章「オフィシエ賞」を授与されたのだとか。
この機会に今村監督作品、是非、ご覧下さい!!