1974年「ザ・ドリフターズ」脱退と同時に芸能界も引退された、荒井注(あらい ちゅう)さんでしたが、その約半年後にはテレビドラマで復帰。以降、長らく、俳優、お笑いタレントとして活躍されます。しかし、1999年12月、富士フイルム「フジカラーお正月を写そう」のCMで、久々に「ザ・ドリフターズ」のメンバーと共演されると、これが最後の仕事となってしまいます。

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脱退理由は?

「8時だョ!全員集合」が最高視聴率50.5%を記録するなど、「ザ・ドリフターズ」が人気絶頂だったにもかかわらず、1973年6月、突然、脱退を申し出られた荒井さんは、

一旦は、いかりや長介さんに慰留されて、保留されるものの、1974年3月、ついに脱退されます。

そして、その気になる理由ですが、

いかりやさんのワンマンさに嫌気が差した、ギャラの配分が不平等だった、など、様々な噂が流れましたが、実際には、「体力の限界」が、本当の脱退理由だったようで、ある芸能記者が、

荒井は本当に疲れ切っていた。40代半ばの身としては、15歳も下の加藤茶らと一緒に、毎週、舞台の上で跳びはねるのがつらくなっていたんです。

それほど欲がある人じゃないし、この辺でいいやという気持ちになったんでしょう。

と、明かされているほか、

いかりやさんも、後に、

長さん、オレはもう十分に働いた。オレ自身も、これだけ働く人間だとは思わなかった。

もう遊びたい。今すぐ抜けると迷惑かかるだろう。だから、あと半年、奉公するよ。

と、荒井さんが話していたことを明かされています。

(ちなみに、荒井さん脱退後は、いかりやさんの付き人だった、志村けんさんが「ザ・ドリフターズ」に加入されています。)

脱退から半年後にはテレビドラマ「時間ですよ・昭和元年」で復帰

こうして、「ザ・ドリフターズ」を脱退した荒井さんは、同時に、芸能界も引退され、大学時代の友人たちの家を回っては、全国各地の海や川で、日がな一日、釣りを楽しむなど、かねてからの夢だった、釣り三昧の毎日を送られていたのですが・・・

同年8月、そんな荒井さんのもとに、テレビドラマ「時間ですよ・昭和元年」への、出演依頼が舞い込んできます。

(役どころは、森光子さんの夫役で、プロデューサーの久世光彦さんが、荒井さんのとぼけたキャラクターを気に入ってオファーしたそうです。)

そして、悩んだ荒井さんは、真っ先にいかりやさんに相談されると、いかりやさんからは、

ぜひ出るべき

と、言われたそうで、

荒井さんはこのオファーを受け、早くも、芸能界へ復帰。


「時間ですよ・昭和元年」より。(左から)樹木希林さん、
森光子さん、荒井さん、浅田美代子さん。

ちなみに、荒井さんが芸能界を引退される時には、

復帰は考えていない

とおっしゃっていたのですが、それにもかかわらず、約半年後に復帰したため、

いかりやさんほかドリフのメンバーが怒っている

と報道されたことがありましたが、これはデマだったようです。

俳優、お笑いタレントとして幅広く活躍

以降、荒井さんは、テレビドラマ、映画、バラエティなど、幅広く活躍されるのですが、「ザ・ドリフターズ」の番組にもゲスト出演されると、

仕事が減ったからまたドリフターズに入ろうかなっと思って来た

たまに来たんだからお茶くらい出せ!

と、相変わらずの荒井さんキャラを炸裂されるほか、

陰険な性格とふてぶてしい態度がメンバー全員の反感を買い、ザ・ドリフターズより永久追放の憂き目となる

という、脱退ネタのコントも披露されています♪

(その後、いつ頃かは分かりませんでしたが、荒井さんは、伊豆に移住して、650坪の広大な土地に家を建て、々自適な暮らしをされたそうです。)

カラオケで失敗?

ところで、荒井さんは、1993年頃、カラオケ店を経営しようと思いつき、多額の費用を投じて建物を完成させているのですが、

いざ、カラオケ機器を室内に持ち込もうとすると、設計ミスで部屋の入り口が小さすぎてカラオケ機器を入れることが出来ず、最終的には経営を断念。

そして、この模様は、ワイドショーにも取り上げられるのですが、荒井さんは、取材に訪れたレポーターに、

最後に、今のお気持ちを。

と振られると、

何だ、馬鹿野郎!

と、お約束のフレーズを言い放たれています♪


廃墟と化したその建物

富士フイルム「フジカラーお正月を写そう」のCMでドリフと共演

そんな荒井さんは、1998年に、「緑内障」の手術をされるのですが、その際、「肝硬変」であることが判明してしまいます。

(ただ、荒井さんは病院嫌いだったため、入院しても1週間ほどで、退院するなど、病院を転々をされていたのだとか。)

ただ、そんな中、富士フイルム「フジカラーお正月を写そう」のCM出演(2000年のお正月向け)のオファーが舞い込みます。

実は、当初、荒井さんは出演メンバーに含まれておらず、ドリフのメンバー5名と女優の田中麗奈さんで、七福神役を演じられることになっていたのですが、

全員合わせて6人しかおらず、もう1人の人選を考えた末に、元メンバーだった荒井さんに白羽の矢がたったそうで、

スタッフがダメ元でオファーすると、(これまで荒井さんはドリフの仕事を断っていたため)荒井さんが快諾されたのでした。


(後列左から)加藤茶さん、志村けんさん、田中麗奈さん、仲本工事さん、
高木ブーさん、(前列左から)いかりや長介さん、荒井さん。

そして、1999年12月初旬に撮影が行われると、荒井さんは、メンバーとの久しぶりの再会に、手を取り合って昔話に花を咲かせたそうで、自身の病気(腹水を抜きながらの撮影)さえも、

オレのおなかは3リットル腹水がたまっているんだ。バランス取りづらいんだよ。

と、ネタにして、志村けんさんを笑わせておられたのですが・・・

死因は?

その後、2002年2月に入ると、体調が悪化し、ほとんど寝ている生活となってしまいます。

ただ、荒井さんは、大のお風呂好きから、1日5~6時間も入浴されていたそうで、2月8日も、午後11時頃から入浴されていたのですが、奥さんが、翌日9日の朝6時30分に、浴槽の中で意識不明の荒井さんを発見。

すぐに119番通報されるも、救急隊が駆けつけた時には、荒井さんはすでに息を引き取っていたのでした。(死因は「肝硬変」だったそうです)

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妻は?

そんな荒井さんの気になるプライベートですが、荒井さんは、結婚を3度されています。

まず、最初の奥さんは弘子さんという方で、1958年に学生結婚されるのですが、弘子さんは1983年に他界されてしまいます。

その後、荒井さんは、1985年に、32歳年下の女性と再婚されるのですが、早くも2年後の1987年には離婚。

そして、1991年、38歳年下の元信用金庫職員だった、まりさんと再々婚(最後の奥さん)。


荒井さんとまりさん。

お二人の馴初めなど、詳しいことは分かりませんでしたが、

奥さんは、体調を崩された荒井さんを、献身的に看護されていたようで、

荒井さんの最後の仕事となった、富士フイルム「フジカラーお正月を写そう」の、CM撮影にも付き添われていたのだとか。

また、入浴時間が長い荒井さんの様子を、いつも1時間おきに見に行かれていたそうで、荒井さんが亡くなった日は、たまたま、看病疲れからうたた寝してしまい、荒井さんの発見が遅れてしまったそうですが、

まりさんは、そのことをひどく後悔し、自宅2階の和室に安置された荒井さんの遺体に、片時も離れず付き添われていたそうです。

さて、いかがでしたでしょうか?

人に迷惑をかけず、お互いを尊重して好きなように生きる

というのが、荒井さんの人生哲学だったそうですが、

まさにその通り、荒井さんは、周りに気を遣いながらも、好きなように生き、大好きなお風呂で生涯を終えられたのでした。

この機会に是非、そんな荒井さんの、出演作品をご覧になってはいかがでしょう。

「荒井注は元ドリフでオルガン!ギャグThis is a pen!何だバカヤロウが大ウケ!」

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