小説家として活動されているほか、近藤真彦さんの「愚か者」「ギンギラギンにさりげなく」などの作詞も手がけられた、伊集院静(いじゅういん しずか)さん。そんな伊集院さんのルーツを調べてみました。

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年齢は?出身は?本名は?

伊集院さんは、1950年2月9日生まれ、
山口県防府市のご出身、

学歴は、
立教大学文学部日本文学科卒業、

趣味は、
野球観戦、麻雀、競馬、競輪、ボクシング、美術鑑賞、ゴルフ、

ちなみに、伊集院さんは在日韓国人二世で、
本名は「チョ・チュンネ(漢字表記:趙 忠來)」ですが、
日本に帰化した際、「西山忠来(にしやま ただき)」と改名。

また、芸名は、少女漫画「はいからさんが通る」の登場人物、
伊集院少尉からとったものだそうで、
「電通」を退職してフリーになった頃、取引先の社長から、

顧客に覚えてもらうにはこういう名前がいいんだ

と名付けられたそうです。(当時、韓国名を名乗っていたことから)

絵を描くことが好きだった幼少期を経て野球少年へ

今では、誰もが知る作家の伊集院さんですが、幼い頃は、
絵を描きすぎて神経症になるほど、絵を描くことが好きだったそうで、
本はほとんど読まない子どもだったそうです。

それでも、詩吟が好きなお母さんが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」や、
吉田松陰の辞世の歌を読んでくれたため、文学の影響も受けられているのですが、

その一方で、野球少年でもあり、小学校3年生から野球を始めると、
高校時代には、甲子園出場を掛けた県大会で準決勝まで行ったことがあったとか。

ただ、伊集院さんが打てずに負けてしまったそうで、
伊集院さんは当時を振り返り、

私たちに勝った高校が甲子園進出です。
今度こそと思った次の県大会は1回戦で敗退。
もし、あのとき甲子園に出ていたら私の人生も大きく変わっていたでしょう。

と、おっしゃっていました。

長嶋茂雄に勧められて立教大学野球部へ

そんな伊集院さんは、お父さんが自分の事業の跡を継いで欲しかったため、
大学は経済学部がいいという考え方だったのですが、お母さんが、

いずれ実家に帰ってきて跡を次ぐのだから、
大学は美術でも音楽でもいい、好きなことをしなさい

と言ってくれたため、美術大学を目指すようになり、
高校の授業が終わると、隣町まで石膏デッサンを習いに行くようになります。

ただ、ちょうどその頃、一番上のお姉さんが、
「読売ジャイアンツ」の高橋明投手と結婚し、その高橋投手から、

一度野球を見に来なさい

と誘われて、後楽園球場に試合を観に行くと、
そこで、長嶋茂雄さんと出会い、

(長嶋さんの母校の)立教に来なさいよ

と誘ってくれたうえ、バットとトレーナーまでプレゼントとしてもらったそうで、

お母さんの勧めで美術の道を行こうとしていた伊集院さんですが、
満員の観客の中、カクテル光線を浴びてプレーをしてる選手を見ると、
野球もいいなと思い始め、高校3年生の冬には、
立教大学野球部のセレクションを受けることに。

(※セレクションとは、各大学の野球部が、
 来春の入部希望者を対象にして行なう練習会のこと)

結果、経済学部など3学部は補欠も、文学部に入れることになり、

(文学部ということで、女子学生がほとんどだったそうですが、特に、
 伊集院さんが入った日本文学科は40人中男子学生は2人だけだったそうで、
 二つ返事で大喜びで入られたそうです。)

入学後は、野球部の寮に入って野球漬けの日々。

そして、東京6大学の新人戦では4番を打ち、
すぐにレギュラーになられるのですが・・・

その1年後には野球肘になってしまい、野球を諦めることを余儀なくされたのでした。
(※野球肘とは、成長期にボールを投げすぎることによって生じる肘の障害)

弟の死

すると、伊集院さんが野球部を退部したことを知ったお父さんは、

大学を辞めて田舎に戻り、家業を継げ

と言い出されたそうで、

伊集院さんは説得のために帰郷し、

親父が一代で事業を起こしたのだから、自分も一代で何かやる

と、跡を継ぐのを拒否するのですが、
お父さんは怒り、殴り合いの喧嘩に発展。

結局、お父さんは、伊集院さんを跡取りにすることを諦め、
まだ高校2年生だった弟さんに期待をかけるようになると、
総合病院を建てて経営させようと、弟さんには、
医学部を目指すように言われたのですが・・・

その年の夏、台風が近づいていたある日のこと、
弟さんはボートで沖に出て遭難してしまいます。

そして、お父さんの必死の救助活動もむなしく、
10日後、弟さんの遺体が発見されたのでした。

ちなみに、伊集院さんは、弟さんの死後、弟さんの日記に、
子どもの頃(在日韓国人だったため)いじめられていた自分を、
助けてくれた伊集院さんへの感謝の思いと、

その伊集院さんが嫌だというなら、自分が父の後を継ごう、
ただ、医者になった後は、父の許しを得て冒険の旅に出たい

と綴られているのを見たそうで、

この時初めて、弟さんが冒険家を目指し、
夏になるとボートで沖に出て、身体を鍛えていたことを知ったのでした。

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「電通」に入社

この弟さんの死には、大変なショックを受けた伊集院さんでしたが、
それでも、跡を継ぐために実家に帰ろうとは思わず、

むしろ、冒険家を目指していた弟さんの意志を継ぎ、
自分もしたいことをしようと思うようになったそうで、
そのため、お父さんからは仕送りをストップされてしまうのですが、

当時の東京には、いくらでも仕事があったため、仕事には困らず、
横浜で荷揚げのアルバイトをして学費を稼いだそうです。

そして、無事、大学を卒業された伊集院さんは、
以前、広告代理店「電通」で働いていた人を知っていたため、
広告代理店でもいいかなと思い、大学卒業後の5月に「電通」を訪問。

すると、その年の採用はすでに終わっていたのですが、
訪ねてきた伊集院さんの側を、偶然、社長が通りかかり、

おまえ、身体が大きいな。運動をやっていたのか。

と、聞かれたため、

野球を少し

と答えると、

たまたま、ちょうどその翌週、どうしても勝ちたい、
会社対抗の試合があったそうで、それに出てみないかと誘われたのです。

さらに、社長の文章を清書してみろと、文字も書かされたのですが、
子どもの頃からお母さんに習字を習っていたため、社長から、

日本人より字が上手いじゃないか

と褒められ、翌週の野球の試合にも見事勝利したことから、採用が決定。

こうして、伊集院さんは、「電通」で2年勤務され、
その後フリーとなると、CMディレクターを経て、

1980年には、松原みきさん、松任谷由実さん、松田聖子さん、
薬師丸ひろ子さん、和田アキ子さんらのツアーの演出ほか、
ファッションショーなども手がけるようになったのでした。

「伊集院静の元嫁は夏目雅子!不倫で結婚!桃井かおりとも?娘は?」に続く

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