「釣りバカ日誌」シリーズを始めとする数多くの映画やテレビドラマ等で、長らく日本国民に笑いと感動を与え続けられている、西田敏行(にしだ としゆき)さん。今回は、そんな西田さんの、生い立ちからブレイクに至るまでの経緯について、ご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

西田さんは、1947年11月4日生まれ、
福島県郡山市のご出身、

身長166センチ、
体重80キロ、

血液型はB型、

学歴は、
明治大学付属中野高等学校
⇒明治大学農学部中退

趣味は、
落語観賞、プロ野球観戦、海外旅行、

特技は、
即興音楽、乗馬、

ちなみに、西田敏行は本名です。

父は他界、母は再婚で、伯母夫婦の養子に

西田さんのお父さんは、今井泉さんというそうで、もともと、大阪府和泉市の出身だったそうですが、最初の奥さんと駆け落ちして東京に移り住むと、東京の為替貯金局に勤務されます。

ただ、その後、奥さんは他界してしまい、お父さんも福島県郡山市の為替貯金局へ転勤となると、そこで紀惠さんという女性と知り合って再婚。そして、西田さんが誕生します。

しかし、西田さんが5歳の時に、お父さんが57歳で他界してしまい、お母さん(紀惠さん)が美容師をしながら、女手一つで西田さんを育てられると、

今度はお母さんが再婚することとなり、西田さんは、郡山市に住んでいた伯母(お母さんのお姉さん)夫婦の「西田家」に養子に出されることとなったのでした。

(伯母夫婦は、伝染病で娘を亡くしており、子どもが欲しかったのかもしれません)

ちなみに、西田さんは、養子に出された時のことを、振り返り、

おばちゃんちにしばらくいるみたいな感じだった

と、語っておられました。


お母さん(紀惠さん)と幼少期の西田さん。そっくりです♪

養父の祖先は薩摩藩士

ところで、西田さんが養子に入った「西田家」なのですが、テレビ番組「ファミリーヒストリー」によると、

西田さんの養父・西田辰治さんのお父さんの英吉さん(西田さんのおじいちゃん)と、そのお父さんの源左衛門さん(西田さんのひいおじいちゃん)は、鹿児島市清水町の出身で、

なんと、鹿児島県立図書館に保管されている幕末の藩主・島津忠義の記録に、「西田源左衛門」の名前が記載されているというのです。

そして、源左衛門さんの役職は火薬と砲弾の製造を行う火薬局を取り仕切る武士で、安政6年に描かれた絵図には、源左衛門さんの屋敷の場所も描かれているのだそうです。

ただ、そんな由緒正しい家柄にもかかわらず、西田さんは、養父から一度もその話を聞いたことがなかったそうです。

(ちなみに、島津家で篤姫の世話係をしていた池端喜八郎のひ孫が加山雄三さん、その近所に住む武士・萩原一兵衛のやしゃごが恵俊彰さんだそうで、それぞれの屋敷もその絵図に載っていたそうです)

幼少期から俳優に憧れる

さて、西田さんは、郡山市役所で働く公務員の養父・西田辰治さんと、養母・美代さんのもと、すくすくと育たれると、

(美代さんは、伝染病で娘を亡くされていたため、衛生面に関してはとても神経質だったそうです)

土曜日は、無類の映画好きだった辰治さんに、「映画行くかと」という感じで誘われて、辰治さんの自転車の後ろに乗り、封切り館ではなく、大人60円、子ども30円の、2番館、3番館みたいな映画館で、6本立てという映画をランダムに観ていたそうで、

その影響で、小学校では演劇クラブに入部し、小学校5年生くらいの時には、将来は俳優になろうと考えるようになったのだそうです。

そして、中学生になった西田さんは、演劇部に入ろうとするのですが、当時、男子生徒は、スポーツ部に入ることが一般的とされていた時代だったため、演劇部の部員は女子ばかりで、結局、演劇部には入らず、バレーボール部に入部され、悶々と3年間を過ごされたのでした。

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中学卒業後、俳優を目指し上京

そんな西田さんは、映画の中で話している言葉がいつも「東京弁(標準語)」だったことから、「東京弁」っていいな、と思い始め、そのうち、

俺このままずっとこっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか。

と、子どもなりに危機感を感じ始めたそうで、

早めに東京へ行き、東京弁と福島弁のバイリンガルになろうと思い、

(俳優になるために)東京に出たい

と、両親を説得。

すると、両親は喜んで背中を押してくれ、西田さんは中学卒業と同時に上京し、東京の高校に入学できたそうで、

西田さんは、その時を振り返り、

私がこうやりたいんだと言ったのも万難を排してやらしてやろうという協力体制を取ってくれた。だからとても今でも感謝しています。

決して豊かではなかったですけども東京へ1人子供をやって、学生生活を送らせるというのは大変、非常に大変なことだったと思います。母は保険の外交などもやりながら、一生懸命支えてくれたんですね。

と、語っておられました。

「西田敏行の若い頃は青年座!ゴリラに寂しさを癒やされていた?」に続く

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