高校2年生の時、お母さんが他界したことをきっかけに、一生、一人で行きていくため、好きだったお芝居を仕事にしようと、女優になる決意をされた、大山のぶ代(おおやま のぶよ)さんは、手始めに「俳優座養成所」の入所試験を受けられます。

「大山のぶ代の生い立ちは?少女時代は変な声とイジメられていた!」からの続き

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「俳優座養成所」合格

高校2年生の時にお母さんが若くしてガンで亡くなったことで、自分もお母さんぐらいの年になったらガンで死ぬに違いないと思った大山さんは、残された子供に自分のような思いはさせたくないと、一生、子供は作るまい、なら、結婚もしまいと決意し、

一生、一人で生きていくための職業として、当時夢中になっていたお芝居を演じる仕事、つまり、女優になる決意をし、まず、演技の基礎から学ぼうと思い、「俳優座養成所」の入所試験を受けられると、難関を突破して見事合格。

ただ、「俳優座養成所」は入ってからがもっと大変で、これ以上勉強しても伸びないと判断されると、

もう辞めなさい

と、肩を叩かれ、そうなると、本人がどんなに勉強したくても教えてもらえず、養成期間3年のうち、最初は50人いた同期生がどんどん減っていったそうです。

そんな中、大山さんは、そうはなるまいと、超一流の先生による高度な授業内容だったにもかかわらず、必死に食いついていったのでした。

若い頃は貧乏生活

また、大山さんは、演技の道に進むことに反対だったお父さんから、

役者になるなら出て行け!

と、言われて、家を出たため、

お兄さんが、大山さんが女優になることを応援して、仕送りをしてくれてはいたものの、それだけでは生活できず、テレビ試験放送の手伝いをするなど、様々なアルバイトをしながら「俳優座養成所」に通うなど、生活はとても苦しかったそうです。

ちなみに、「俳優座養成所」の先生の家に、朝、朝食を作りに行き、その後、洗濯をしながら台所を片付け、掃除をするという、家政婦のような仕事もされていたそうで、

大山さんは、

当時は今のような洗濯機はありませんでしたから、洗濯物はたらいに入れて足で踏んで洗うんです。母が生きているうちに料理や洗濯、裁縫、和服の着付けなど一通りの家事は教わってきましたが、こんな形で役に立つとは思いもしませんでした。

役者の仕事もそうなんですが、人生で覚えておいてムダになることなんて何一つないと思います。

と、語っておられました。

デビュー当時は冨士眞奈美とルームシェアしていた

そんな大山さんは、1956年、お世話になっていた先生が書いた、NHKのテレビドラマ「この瞳」で女優デビューされるのですが、

このドラマで共演した冨士眞奈美さんのことを、「素直でいい子」と気に入ると、自分の下宿に連れていき、ルームシェアをすることになったそうで、

冨士さんによると、その部屋は、六畳一間の電話もお風呂もない狭い部屋で、雨が降ると雨漏りし、洗面器をおいて置かなければ水たまりができてしまうほか、トイレは用心して入らないと床が抜けてしまうという、ひどい部屋だったそうですが、

それでも、大山さんと一緒に銭湯に通うなど、共同生活はとても楽しかったとのことでした♪


当時の冨士眞奈美さん(左)と大山さん(右)。

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喜劇役者も?

そんな中、1957年、大山さんは、無事、「俳優座養成所」を卒業すると、

大反対していたお父さんも、養成所の卒業式にこっそり出席してくれたそうで、

しっかりした役者になれ

と、背中を押してくれたそうです。

そして、卒業公演の舞台に立った大山さんを見た、あるプロデューサーの目に留まり、テレビドラマ(タイトルは不明)に出演されたそうですが、映画や舞台にこだわる人も多い中、大山さんは、オファーがあればなんでも受けたそうで、

(大山さんが「俳優養成所」にいた頃くらいから、テレビ放送が始まったそうで、これまで、映画、舞台、ラジオしかなかった俳優という仕事が、飛躍的に増えたそうです。)

渥美清さん、ハナ肇さん、フランキー堺さん、林家三平さんらと一緒に、喜劇をやったこもあったことから、

時には、

あの子は新劇出身なのに、やることは喜劇人のようだ

と、揶揄(やゆ)されることもあったそうですが、女優として様々な経験をすることができたと満足されているとのことでした。

「大山のぶ代はドラえもんのほかサザエさんのカツオの声優もしていた!」に続く

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