1970年には、経営するリゾートホテルが倒産して巨額の借金を抱えたうえ、最愛の母親が他界と、絶頂から奈落の底へと転落した、加山雄三(かやま ゆうぞう)さんですが、借金を完済するべく、巻き返しを図ります。

「加山雄三は昔アメリカに逃避行し猛バッシングを受けていた!」からの続き

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シングル「ぼくの妹に」がヒット

最愛のお母さんの死、巨額の借金、人気の凋落と、またたく間に絶頂から奈落の底に転落した加山さんでしたが、人生の伴侶を得て、再起を目指し、

1976年「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」
1977年「俺たちゃ・なんだい!」

などのバラエティ番組のほか、

1975年「江戸の旋風」
1976年~1984年「ぼくの妹に」シリーズ
1978年「大追跡」

などのテレビドラマにも出演されると、

「ぼくの妹に」シリーズが、平均視聴率21.6%、最高視聴率28%という高視聴率を記録するほか、

同シリーズの挿入歌「ぼくの妹に」(加山さんが作曲)が15万枚を売り上げるヒットを記録。


「ぼくの妹に」より。加山さんと中田喜子さん。

この、久々のヒットで、1976年の「第27回NHK紅白歌合戦」にも、9年ぶり3回目の出場を果たすなど、徐々に人気を回復されたのでした。

「若大将シリーズ」の再ブレイクで借金を完済

そして、1970年代後半には、東京の名画座映画館で、深夜映画として「若大将シリーズ」がリバイバル上映されるのですが、

加山さんが全盛期だった1960年代には、まだ子どもだった大学生たちの間で話題となり、一大ブームが巻き起こります。

(1970年代前半、アメリカでは、映画「アメリカン・グラフィテイ」が爆発的にヒットしており、これが日本にも広まって、1960年代のオールディーズブームとなっているのですが、このことが影響したようです)

すると、このリバイバルの成功で、「渡辺プ口ダクション」の社長・渡辺晋さんが、「若大将シリーズ」の生みの親で、1979年に他界されたプロデューサー・藤本真澄さんへのはなむけとして、

もう一度若大将を復活させる

と、再び「若大将シリーズ」を企画して、同シリーズの脚本のすべてを担当した田波靖男さんに脚本を依頼し、1981年、「帰ってきた若大将」が公開されると、往年のファンを中心に、加山さんは再ブレイク。

この時、加山さんは、すでに、テレビドラマやコンサートツアーなどで復活を遂げていたのですが、この再ブレイクにより、加山さんは、見事、10年で借金を完済されたのでした。


「帰ってきた若大将」より。アグネス・ラムさんと加山さん。

アルバムの復刻版CDを次々とリリース

また、1986年、NHKで「加山雄三ショー」の放送が開始すると、毎回、多彩なゲストが出演したことや、旧知の加瀬邦彦さんら「ワイルドワンズ」のメンバーをバックにエレキギターを演奏したことが話題になるほか、

長年二人三脚でアルバムを制作してきたプロデューサーが新しいレコード会社を設立し、新レーベルから加山さんの1960年代の作品の復刻版を次々とリリースすると、

すでに加山さんのレコードを持っている往年のファンも復刻版CDを買い求めるなど、加山さんは、ミュージシャンとしても再び脚光を浴びたのでした。

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「ヤマザキナビスコ」のCMで「理想の父親」と好感度アップ

さらに、加山さんは、1980年代、「ヤマザキナビスコ」(現・ヤマザキビスケット)のクラッカー、「プレミアム」のCMに家族全員で出演されているのですが、

このCMでの和やかな家族だんらんに、加山さんの好感度は、「理想の家族」「理想の父親」とうなぎのぼりとなり、

1986年~1988年には、「NHK紅白歌合戦」の白組の司会を3年連続で務められるなど、以降、安定した人気をキープされたのでした。

「加山雄三はスキー場閉鎖での数十億の借金を完済していた!」に続く

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