1963年、15歳の時、これまでの青春映画から一転、映画「非行少女」に出演すると、「エランドール新人賞」「モスクワ国際映画祭金賞」など、数々の栄えある賞を受賞した、和泉雅子(いずみ まさこ)さんは、その流れに乗り、歌手デビューもすると、こちらも大ヒットを飛ばします。

「和泉雅子は映画「非行少女」で実際に追い込まれていた!」からの続き

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「めぐり逢う日は/幸せの花を咲かせよう」で歌手デビュー

「非行少女」で、これまでの天真爛漫な美人女優から一皮むけた和泉さんは、1965年には、ファーストシングル「めぐり逢う日は/幸せの花を咲かせよう」で歌手デビューも果たすと、


「めぐり逢う日は/幸せの花を咲かせよう」より。

「ユー・アンド・ミー/エレキファンタジー 二人の虹」(1966年2月・山内賢さんとのデュエット)


「ユー・アンド・ミー/エレキファンタジー 二人の虹」

「やさしくしかってね/あなたの背中」(1966年3月)


「やさしくしかってね/あなたの背中」

「教えて欲しいの/バラ色の太陽」(1966年8月)


「教えて欲しいの/バラ色の太陽」

と、立て続けに、シングルをリリース。

ただ、和泉さんは、歌うことが苦手で嫌いだったため、「なんで歌わないといけないの」と思っていたそうです。

山内賢とのデュエット曲「二人の銀座」が大ヒット

それでも和泉さんは、1966年、1967年には、山内賢さんとデュエットした、「ザ・ベンチャーズ」のカバー曲、「二人の銀座」(1966年9月)と「東京ナイト」(1967年9月)が立て続けに大ヒットを記録。


「二人の銀座」


「東京ナイト」

このヒットを受け、「二人の銀座」「東京ナイト」は、和泉さんと山内さんのダブル主演で映画化もされ、お二人は、日活を代表する青春コンビとして人気を博したのでした。

「二人の銀座」はもともと越路吹雪のための曲だった

ところで、この「二人の銀座」、実は、もともと、1965年1月、来日2回目の「ベンチャーズ」が越路吹雪さんのために作った曲だったそうですが(原曲は「銀座ライト」)、

越路さんが、譜面を見て、

これ、私じゃないわ

雅子ちゃんにあげて。彼女は歌が下手で持ち味しかないから、楽器のように歌えるように、男性とデュエットしたらいいと思うわ

と、たまたま、越路さんと和泉さんのディレクターが一緒だったこともあり、勧めてくれたそうで、その後、越路さんのアドバイスを受け、デュエットの相手が山内賢さんに決まったのだそうです。

(和泉さんと山内さんは、すでに、「ユー・アンド・ミー」(1966年)でデュエットされていました)

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ハモリを知らず、4回目のレコーディングでようやく成功

そして、和泉さんは、家で何度もレッスンをしてレコーディングの日を迎えたそうですが・・・

山内さんと初めて歌を合わせる時、最初はうまく進んでいたものの、「二人の銀座・・・」と歌ったとたん、山内さんが、家で1人で練習していたのとは違う歌を歌ったため、和泉さんはびっくり。

実は、これはハモリだったのですが、和泉さんは途中からハモリになるとは知らなかったそうで、何回か繰り返し練習をし、合わせようとするも、どうしてもうまくできず、たまらず、和泉さんは、隣の部屋に駆け込むと、鍵をかけて、1時間以上もワーワーと泣き続けたそうで、

結局、泣き続けたせいで声が出なくなってしまい、仕方なく、その日は夜の銀座でレコードジャケットの撮影だけになったのでした。

さらに、2回目のレコーディングは緊張しすぎたことから、足がつり、スタジオに入れなくなったため、急遽中止。

3回目のレコーディングは夏風邪を引いて、これまた中止。

そして、4回目のレコーディングで、ようやくうまく歌うことができたのでした。

(とはいえ、一小節づつ、ぶつぶつに切れているものを繋ぎ合わせて、やっとできたレコードだったそうで、それが大ヒットしたことに、和泉さんは大変驚いたそうです)

ちなみに、デュエットのお相手である山内さんは、2011年、ガンのため他界され、和泉さんは、

とにかくまじめな人だった。残念です。裕(石原裕次郎)さん、南田(洋子)さん、長門(裕之)さんと日活会をつくってくださいね。

と、天国の山内さんに語りかけられているのですが、和泉さんに振り回された山内さん、本当にお疲れ様でした。

「和泉雅子のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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