和泉雅子は小学校が嫌でたまらず「劇団若草」に応募していた!


幼稚園の頃は、食堂の仕事で忙しい両親に代わり、朝1人で起きて朝食の準備をし、弟に食べさせてから幼稚園に通うなど、とてもしっかりとした子どもだった、和泉雅子(いずみ まさこ)さんですが、小学校に入学後は、勉強ができず、学校が嫌で嫌でたまらなかったといいます。

「和泉雅子は幼少期からしっかり者だった!」からの続き

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小学校時代は勉強が苦手だった

幼稚園の時はしっかり者だった和泉さんですが、小学校に入学後は、1年生の時から勉強ができず、成績の5段階評価は、いつも「1」と「2」ばかりだったそうで、そのため、ついたあだ名が「行進曲の雅子」。(行進する時の「1、2!1、2!」という掛け声から)

かといって、音楽も体育もまったくダメで、かけっこは、いつもビリ。

小学校3年生で、初めて、図画工作で「3」を取った時には、先生が、「和泉が(1、2、3と)ワルツだぞ~!」と大騒ぎし、みんなが、良かった良かったと拍手をしてくれるほど、勉強が苦手だったそうです。

勉強が苦手になった理由とは

ちなみに、和泉さんは、

小学校に入ったときショックだったのがね、自分の名前がひらがなで書けなかったのよ~!みんな、お家で練習してくるでしょ、うちなんかほら、ここで食堂やっていたから、誰も教えてくれないわけじゃない、だから、チャンバラごっこばかりしていたわけじゃない!

それで、学校行ったら、みんな書けるのよ!「何を書いているのだろう・・・?」と思って。名前を書けって言われても、字を知らないから書けないのよ~、それがね、勉強でおいて行かれる第一段階だったの。

そのまま、ずっと勉強ができなくて、勉強ができないから、学校行きたくないな~って思って女優になって。

と、明かされているのですが、

お父さんは、むしろ、「目を悪くするから勉強するな」と言うなど、勉強に関してはとてもおおらかだったそうです。

(ただ、嘘をついた時と約束をやぶった時は激怒し、鼻血が出るほど殴られたそうです)

お転婆な女の子だった

勉強が苦手だった和泉さんは、学校が終わると、宿題もせず、ランドセルを放り出し、一目散に遊びに行ったそうですが、

三屋、松坂屋、三越などのデパートは格好の遊び場で、男の子たちを引き連れ、お客の後をつけて探偵ごっこをするほか、一流料亭の友達の家に行って、お座敷でプロレスをしたり、ビルの屋上から隣の銀行に飛び移るなど、とてもお転婆な女の子だったそうです。

(勉強ができず、お転婆だった和泉さんは、小学4~6年生の時は、担任が厳しい先生だったため、年中、立たされていたそうです)

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学校が嫌でたまらず「劇団若草」に応募

そんな和泉さんですが、子どもの頃から目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちだったため、その美少女ぶりから、イジメの対象になったこともあったそうで、余計に学校が嫌で嫌でたまらなくなり、何かサボる方法はないかと考えるようになったそうです。

(家に引きこもるということが許されない時代で、学校をさぼって家にいると、医者を呼ばれて注射されたり、校長先生やお巡りさんを呼ばれたりしたこともあったそうです)

すると、小学校4年生の終わり頃、新聞で、「雑誌や舞台に出てみませんか」と「劇団若草」の募集広告を見つけたそうで、

和泉さんは、とっさに、

子役になれば学校に行かなくていい

テレビや舞台に出たら学校は休める

などと、ひらめき、早速お父さんにオーディションを受けたいとお願いすると、

お父さんは、

一時的にやりたいだけならやめろ。やるなら一生やりなさい。本気でやるなら応援してやる

と、応募する際に必要な、添付する写真まで撮ってくれたのだそうです。

(お父さんは、写真が趣味だったため、家の中に写真スタジオのようなものを作っていたそうで、日頃から、和泉さんと弟さんに、あれやこれやとポーズの注文をつけては写真を撮っていたそうです)

「和泉雅子は美少女ぶりで「劇団若草」も「荒城の月」も合格していた!」に続く

お父さんが撮影した「劇団若草」への応募写真

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