1961年に「日活」に入社して以来、数多くの青春映画に出演し、その天真爛漫な美少女ぶりで人気を博すほか、撮影所では、みんなから蝶よ花よともてはやされていた、和泉雅子(いずみ まさこ)さんですが、映画「非行少女」では一転したそうです。

「和泉雅子が若い頃はもてはやされ自由奔放な日々を送っていた!」からの続き

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映画「非行少女」で演技派女優としての地位を確立

数多くの青春映画で天真爛漫な役を演じていた和泉さんですが、1963年、15歳の時には、石川県の内灘を舞台に、絶望的な環境の中で身も心もすさみきり、非行に走った少女が立ち直る姿を描いた映画「非行少女」(浦山桐郎監督)で、主人公の15歳の少女・北若枝役を熱演すると、映画は大ヒットを記録し、和泉さんも、さらなるブレイク。

さらには、和泉さんの一世一代とも言われる渾身の演技が認められ、「エランドール新人賞」「モスクワ国際映画祭金賞」など、数々の栄えある賞を受賞し、

「モスクワ国際映画祭」で審査委員だったフランスの名優ジャン・ギャバンさんにも、

この少女は将来凄くなる

と、言わしめます。

(ただ、当時の和泉さんは、大人の世界の話だと他人事のように聞いていたそうで、この「非行少女」に出演したことが、将来、自分の財産になるとは思ってもみなかったそうです)


「非行少女」より。

「非行少女」出演は「日活」の命令だった

しかし、これまで天真爛漫で朗らかなイメージできていた和泉さんに、なぜ、真逆のヒロイン役のオファーがきたのでしょうか。

実は、浦山桐郎監督は、1962年、吉永小百合さんと浜田光夫さんのコンビで制作した映画「キューポラのある街」が大ヒットを記録して、ブルーリボン賞をはじめとする数々の賞を受賞しており、

浦山監督が、その勢いに乗り、他の女優でも映画を撮ることを希望したことから、和泉さんを売り出したい「日活」が和泉さんを起用したのでした。

とはいえ、和泉さんは、台本を読み、

こんな悪い役はやらないから

と、出演を拒否。

それでも、浦山監督がどうしてもこの映画を撮りたかったことから、和泉さんは、「日活」から「どうしてもやれ」と言われたそうで、会社の命令には逆らえず、仕方なく出演することになったのでした。

(「非行少女」のクランクインは1962年11月の初めと、まもなくお正月という時期だったそうで、和泉さんも相手役の浜田光夫さんも、正月映画など他に2~3本の作品を抱えていたため、撮影は2週間くらいで一旦中断し、「空の下遠い夢」「海と鷹」「男の紋章」を撮り、翌年1963年2月、改めて撮影がスタートしたそうです)

「非行少女」では実際に厳しい演技指導で精神的に追い込まれていた

こうして、和泉さんは、渋々、「非行少女」に出演することになったそうですが・・・

撮影が始まると、浦山監督からはダメ出しばかりだったそうで、映画の前半で、若枝(和泉さん)が「ダラ!」(馬鹿野郎)と叫びながら、走り去る車に石を投げるシーンでは、監督からは何の指示もないまま、朝から晩まで石を投げさせられたほか、

すさんでいる少女という役になりきらせるため、風呂に入ることも、髪を洗うことも、母親の付き添いも許されない、まるでイジメのような厳しい演技指導を受けたのだそうです。

しかも、浦山監督は、何も言わず延々と黙り込んでいることがしばしばあったそうで、和泉さんにはそれが怖く、結果、精神的に追い込まれ(かといって他人に言うわけにもいかず)、

ウラ公(浦山監督)を殺して、自分も死ぬ

と、毎日毎日、日記に書いていたのだそうです。


「非行少女」より。浜田光夫さんと和泉さん。

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後半の演技は実際の感情が非行少女そのものだった

すると、やがて、そんな恨みが演技にも反映されるようになり、結局、4ヶ月かけて撮影を終え、ラッシュを見ると、後半の演技は、下から睨みあげるような、ふてぶてしい非行少女そのものとなったそうで、

試写室で監督に、

あの目の使い方は忘れるな

と、言われたのを和泉さんは今でも覚えているそうです。

ちなみに、和泉さんが30歳の時、大空眞弓さんの楽屋で、浦山監督とばったり会ったことがあったそうで、

和泉さんが、

あの時は随分いじめたじゃないの

と、話しかけたところ、

浦山監督は、

君にはとても優しくしたよ

と、言われたとのことでした(笑)

「和泉雅子は昔「二人の銀座」(山内賢とのデュエット)が大ヒットしていた!」に続く

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