高校1年生秋の練習試合では、まだまだ技術不足で、素人のような無様なバンザイでレフトフライを捕り損ねるも、転々と転がるボールを、意気消沈したり暗くなったりすることなく、一生懸命追いかける姿で、後にプロ野球選手となる矢作公一さんを惹きつけたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、高校2年生の秋には、チームの主軸になるまでに成長したそうで、チーム全体もレベルアップし、高校3年生の夏には、甲子園を狙えるチームになったそうですが・・・

「長嶋一茂はバンザイで矢作公一を惹きつけていた?」からの続き

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矢作公一の「ドカベン」体型を長嶋一茂だけは笑わなかった

レフトフライをバンザイするも、後逸したボールを一生懸命に追う一茂さんの姿に清々しさを感じ、一茂さんと一緒に野球をしたいと、立教高校に進学したという矢作公一さんですが、

矢作さんは、子供の頃から肥満体型で、中学生の頃には、固太りの「ドカベン」体型だったため、この時も、早速、先輩たちからは、意味ありげな目で迎えられたそうで、

(さすがに、リトルリーグ時代から強打者だった矢作さんを、正面切って直接バカにする者はいなかったそうですが)

矢作さんは、そうされることには慣れており、先輩たちに悪気がないことも分かっていたそうですが、

一茂さんだけは、笑うようなことはせず、一人だけ真顔で、

すっごくいい身体してるなあ。でかいホームラン打つんだろうなあ

と、賞賛するように言ったそうで、

やはり、「この人と野球をやりたい」と思った自分の目は狂っていなかったと、感じたそうです。

(矢作さんは、その時の一茂さんの真剣な顔つきが今も忘れられないそうです)

また、矢作さんは、その時の一茂さんの印象について、

やっぱりひと冬越えたという感じで、秋に見た一茂さんとは、身体も顔つきもひと味変わってました。すごくしごかれたんだなということは、ひと目で分かった

とも、語っています。

高校2年生の秋には4番ファーストでチームの主軸に成長していた

さておき、一茂さんは、高校から本格的に野球を始めたにもかかわらず、高校2年生の秋には、4番ファーストでチームの主軸になるまでに成長していたそうで、

チーム全体も、一茂さんの成長と共にレベルアップし、一茂さんが高校3年生になった夏には、十分、甲子園を狙えるまでになっていたそうです。

(お父さんの長嶋茂雄さんが果たせなかった甲子園出場は、一茂さんにとっても悲願のようなものだったそうです)

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甲子園出場は果たせなかった

そんな中、一茂さんが高校3年生の時に迎えた、1983年7月29日、埼玉県予選準決勝での所沢商業高校戦では、投手戦となり、9回まで双方ともに無得点だったそうで、延長10回表には、一茂さんが二塁打を放ち、出塁したものの、無得点に終わると、

10回裏、所沢商業高校の先頭打者がレフト前ヒットで出塁し、続く打者が送りバント、さらには、次の打者がフォアボールを選び、ワンアウト1、2塁になると、2番打者の山下さんがライト前にサヨナラヒットを打ち、一茂さんたち立教高校は0-1xで敗退。一茂さんは、お父さん同様、甲子園に出場することはできなかったのでした。

ちなみに、一茂さんは、著書「三流」で、

ポンと俺の右斜め上に打球が上がり、セカンドにいたランナーが三塁ベースを全速力で駆け抜けるのを見た時には、「ああ、もうこれはセーフだ、俺たちは負けたんだ」というのが分かった。

悔しいとか、悲しいとか、そういう感情はまったく湧いてこなかった。涙の一滴もこぼれなかった。それよりもその前の回の守備で、俺はファーストフライを捕り損ねていた。太陽にボールが入って見えなかった。

失点には結びつかなかったけれど、そのことの方が悔しいくらいだった。太陽とか風とか雨とか、人間にはどうしようもない自然現象ってあるんだなあ、なんてことをぼんやり考えていた。

と、綴っています。

「長嶋一茂が「サボりの天才」と言われていた真相は?」に続く


三流

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